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|国旗画像 = Flag of Germany.svg
|国旗リンク = [[ドイツの国旗|国旗]]
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|国章画像 = Coat of Arms of Germany.svg
|国章リンク = [[ドイツの国章|国章]]
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|標語 = <!--{{lang|de|''Einigkeit und Recht und Freiheit''}}<br/>([[ドイツ語]]: 統一と正義と自由)--><!--明確な出典が必要です。俗説を紹介する必要なし。-->
|標語追記 =
|国歌 = [[ドイツの歌|{{lang|de|Das Lied der Deutschen}}]]{{de icon}}<br/>''ドイツ人の歌''<br/>{{center|[[ファイル:National anthem of Germany - U.S. Army 1st Armored Division Band.ogg]]}}
|国歌追記 =
|位置画像 = West Germany 1956-1990.svg
|位置画像説明 =
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|公用語 = [[ドイツ語]]
|首都 = [[ボン]]
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|変遷年月日2 = [[1990年]][[10月3日]]
|通貨 = [[ドイツマルク]]
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}}
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戦後の西ドイツの再出発には多数の障害があった。大戦による破壊もさることながら、[[モーゲンソー・プラン]]に基づきドイツを脱工業化するため、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍は1950年まで石炭産業・鉄鋼業を[[財閥解体]]した。国内外にドイツ企業が持っていた高価値の[[特許]]は敵性資産として連合国が没収した<ref>国外に保有する資産に関しては日本も同様の境遇にあった。</ref>。それだけでなく、ドイツ人の研究者がソ連やアメリカに連行された。
なかんずく1948年の'''通貨改革'''は試練であった<ref>ここから西ドイツ成立後の[[市場経済|市場経済主義]]経済政策に至るまで、[[ルートヴィヒ・エアハルト]]が経済大臣・首相を歴任した。</ref>。6月にライヒスマルクが1/10の[[デノミネーション]]をともないドイツマルクへ置き換えられた。また、[[連邦準備制度]]にならったマルチ・リザーブ・システムが同年3月設立の{{仮リンク|レンダー・バンク|en|Bank deutscher Länder|de|Bank deutscher Länder}}を頂点に整備された。そして、現金以外の金融資産の切り替えが行われた。一般の債権債務は通貨と同率の1割となった。公債はすべて破棄された。預貯金は1割にされてから、[[預金封鎖|引き出しがその半額に制限]]された。封鎖分は10月に2割が引き出せるようになり、1割が中長期投資勘定に振り返られた。残り7割は切り捨てられた。したがって、預貯金は1割ではなく6.
復興の積極要因は幾つかあるが、端緒は占領軍による緊縮政策の根負けである。1948年6月23日の法律は[[所得税]]・[[法人税]]率等を平均して2/3に縮小した。翌日の立法では[[消費税]]の統制が撤廃された。11月に賃金の統制が撤廃された。主要食糧が1950年前半までに、石炭・鉄鋼等も1952年頃までに自由化された。また工業に対する連合国の束縛の廃止もある程度の影響を与えた。結果として[[物価]]が実勢値に跳ね上がった。<ref name=post />
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この朝鮮戦争は西ドイツの国際的地位を回復させた。1951年初頭[[ランツベルク刑務所]]から大量の戦犯が釈放された。1952年9月10日、西ドイツ政府はイスラエルの全般補償請求を認め、15年間で34億5000万ドルを現物により支払うことを約束した([[第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償#ルクセンブルク協定の成立]])。
[[1950年代]]末から[[1960年代]]にかけては[[ガストアルバイター]](Gastarbeiter)として、[[トルコ]]や[[大韓民国|韓国]]など諸外国から[[移民]]が誘致された。彼らは西ドイツの人手不足や経済成長の加速を支えた。1955年イタリアと、1960年スペイン・ギリシャとガストアルバイターの募集協定を結んだが、まだこのときは労働者全体に占める外国人の割合は
1970年代は波乱であった。1973年1月末に[[ドイツ連邦銀行]]にドルが売り浴びせられ、以降5週間に差し引き240億ドイツマルクが流出した。逆にドルは流入したので、戦前からドル基準の国内物価が上昇した。[[オイルショック]]により1975年上半期の失業者数は90万人にのぼり、11月に[[欧州諸共同体]]以外からの労働者募集を中止した。1974年12月には17.3億ドイツマルクの公共事業を決定した。7.
1983年中ごろ依然として失業者数が230万人(9.
一方、原子力企業{{仮リンク|ヌーケム|en|Nukem Energy|de|Nukem}}がパキスタン・スーダン・リビアの3カ国へ核燃料を密輸、1985年に原爆188個分、1986年で70個分の核物質が行方不明となっていた<ref>[[:de:Stern (Zeitschrift)|シュテルン]] 1988年1月21日号</ref>。1960年4月ヌーケムの主要株主は、52.
1988年後半まで失業者数は220万ほどであったが、[[ベルリンの壁崩壊]]直前の1989年末に200万の大台を割った。
1989年1月には国際協定の調印により、[[上海]]へ地下鉄を建設するために[[ドイツ復興金融公庫]]が4億6千万マルクを供与することとなった<ref>''IDSA News Review on East Asia'', vol. 3, Institute for Defence Studies and Analyses, 1989, p. 143.</ref>。
1990年3月、欧州女性の富豪ランキングで、1位と2位は[[エリザベス2世]]と[[ベアトリクス (オランダ女王)|ベアトリクス女王]]であったが、3位は[[ヨハンナ・クヴァント]]であった<ref>''[[:en:Harpers & Queen|Harpers & Queen]]'', March, 1990</ref>。1991年前半には失業者数が160万人ほどへ落ち着き、国内への投資も増加した。
== 政治 ==
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