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建安19年([[214年]])5月、孫権は皖への攻撃に攻略した。後に曹操の援軍として張遼が夾石まで来ていたが、落城の知らせを聞き退却した。
建安20年([[215年]])8月、張遼は楽進・李典と共に[[合肥]]に駐屯していたが、孫権
孫権軍の先遣部隊が到着すると、張遼は自ら先鋒を務め敵陣へ突撃、敵兵を数十人殺し、2人の将校を斬り、孫権の将旗の近くまで迫ったので、孫権は戟を持って戦いつつ退走した。張遼は孫権の軍勢が丘に退げたのを見ると、孫権らに「下りてきて戦え」と怒鳴りつけた。孫権は張遼らの軍勢が寡兵であることを見てとり、大軍をもって何重にも囲んだが、張遼は配下の兵と共に包囲を破って脱出した。残りの兵たちは「将軍、私たちを見棄てるのですか」と叫んだ。張遼は再び引き返して包囲の中に突入、配下を助け出し、さらにまた包囲を破って脱出した。孫権の兵馬は皆道を空け、思い切ってぶつかる者もなかった。この日、張遼らは半日間の間戦い続けたとされている。
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この余りに不意打な攻撃に、孫権軍の先遣部隊はすっかり意気消沈し、この奮闘に勇気づけられて曹操軍の将兵は城を守り通した。結局、孫権は十数日間ほど合肥城を包囲したが、落す事はできずに撤退した。
孫権の勇武と騎射には張遼に賛嘆させられ、張遼が孫権を知らなかった。戦いの後、張遼が呉の降兵に「今さっき紫髯の将軍で、背丈は高いが足が短く、馬にたっしゃで弓のうまい者がいたが、あれは誰だ」と尋ねると、降兵は「あれが、孫会稽(孫権)さまです」と答えたと、楽進に「あれが孫権と知っていれば急追して捕まえられただろう」と言って、捕まえ損ねたことを惜しんだ。張遼はこの戦功で征東将軍に任命された。
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建安21年([[216年]])、孫権征伐のために親征した曹操は、張遼が戦った場所を見て嘆息したという。張遼の兵士を増加させ、居巣に駐屯させた。
建安22年([[217年]])2月、[[濡須口の戦い]]では臧覇と共に先鋒を務め、孫権の築城部隊を退させた。後に曹操軍
建安24年([[219年]])、関羽が[[曹仁]]を包囲した時、孫権は当時降伏していたため[[揚州 (古代)|揚州]]への備えの必要がなかったことから、曹操は張遼らの軍を曹仁の救援に向かわせた。張遼が辿り着かないうちに、徐晃が関羽を破って曹仁の包囲を解いていた。張遼は曹操の本営がある摩陂に出向き、曹操は張遼を労った。その後、陳郡に駐屯した。
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