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'''斡啜'''(あつてつ、女真音:オット、生年不詳-[[1148年]] )は、[[金 (王朝)|金]]の[[皇族]]。または'''兀朮'''(ウロジュ)とも。中国名は'''宗弼'''。初代[[皇帝]]の[[阿骨打]]の第6子(嫡子としては第4子)。
 
==略要==
===生涯===
[[1125年]]に叔父の[[呉乞買|太宗]]に従い、従兄の[[粘没喝]](宗翰)と共に[[北宋]]の都である[[開封]]に攻め寄せて、[[徽宗]]・[[欽宗 (宋)|欽宋]]父子を初めとして、北宋の皇族・大臣らを捕虜として北方に連行した。<br/>
やがて、[[江南]]に逃れたの康王[[高宗 (宋)|趙構]](高宗)が南宋を建国した。彼は叔父の太宗の厳命で、[[長江]]を越えて追撃するが、宋将・[[韓世忠]]らの軍勢に撃退された。さらに[[岳飛]]らの宋の勤皇軍が襲撃したために、止むなく撤退して北帰した。[[1137年]]([[天会]]15年)、甥の[[熙宗 (金)|煕宗]]により、今までの功績で'''瀋王・右副元帥'''に封じられる。これによって、彼は金の軍事権を全面的に握った。[[1138年]]([[天眷]]元年)、再び南宋に遠征するが、今度は岳飛に大敗した挙句に、河南南部を南宋に奪回された。その後も、引き続き'''都[[元帥]]・太保・領行台尚書省'''を歴任した。やがて政治家としての能力を認められて、'''[[尚書]]・左[[丞相]]・[[侍中]]'''に昇進し、異母兄の遼王[[斡本]](宗幹)と共に金の頂点として君臨した。[[1140年]](天眷3年)に、再度南宋に遠征し、今度は河南南部を奪回した。だが、宿敵の岳飛の軍と激突し、岳飛の天性的な兵法の指揮で再び大敗した。さすがの兀朮も岳飛の存在に危惧を感じたために、[[1141年]]([[皇統 (金)|皇統]]元年)、密約関係にあった[[宰相]]の[[秦檜]]に命じて、岳飛・[[岳雲]]父子を[[処刑]]させた。また、強引に淮河以北を金の領土とする和議をまとめさせた。<br/>
[[1148年]](皇統8年)に亡くなった。熙宗によって、亡兄の斡本と同様に'''忠烈王'''の[[諡号]]を贈られて、'''梁王'''に昇格された。
 
一説では金末の政治家で宰相でもあった[[福興|完顔承暉]](福興)と武将の[[胡沙|完顔承裕]](胡沙)は彼の末裔だという。
 
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