「荻野山中藩」の版間の差分

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== 藩史 ==
荻野山中藩は[[小田原藩]][[大久保氏|大久保家]]の支藩である。[[天明]]3年([[1783年]])に[[駿河国]][[松長藩]]主・[[大久保教翅]]が陣屋が山中に移転したことで立藩した。この頃から山中藩では藩財政の窮乏化が進んでおり、教翅の子・[[大久保教孝|教孝]]は「養蚕要略」を公布して養蚕業の奨励・発展に努めたが、効果は望めなかった。[[幕末]]の[[慶応]]3年(1867年)12月、[[江戸]][[薩摩藩]]邸に集まった[[鯉渕四郎]]ら倒幕派浪士隊が藩主が[[甲府城]]の勤番のために留守であった山中陣屋を襲撃し、陣屋は焼失した。焼失にもかかわらず、市内王子の福伝寺には遺構として陣屋裏門と伝わる門がある。跡地には稲荷と石灯籠があるにすぎない。
 
慶応4年([[明治]]元年=[[1868年]])、[[徳川家達]]の駿府([[静岡市|静岡]])入部にともない、駿河国内の領地に替えて相模国愛甲郡内の旧幕府・旗本領を与えられ、現在の厚木市周辺に領地を集中させた。明治2年(1869年)6月、最後の藩主・[[大久保教義|教義]]は[[版籍奉還]]により知藩事となった。明治4年(1871年)7月の[[廃藩置県]]で荻野山中藩は廃藩となり'''荻野山中県'''が設置されたが、同年11月に[[足柄県]]に統合され、明治9年(1876年)に神奈川県に編入された。現在の厚木市荻野新宿の交差点の近くには、参勤交代に使われた道が残り、案内の石碑がある。