「果心居士」の版間の差分

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*松永久秀とは特に親交があり、久秀が「幾度も戦場の修羅場をかいくぐってきた自分に恐ろしい思いをさせることができるか」と挑んだところ、数年前に死んだ久秀の妻の幻影を出現させ、震え上がらせた<ref>中山三柳『醍醐随筆』1670</ref>。
*豊臣秀吉に召されたとき、果心居士は秀吉が誰にも言ったことのない過去の行いを暴いたために不興を買い、捕らえられて磔に処された。しかしこの時、果心居士は鼠に姿を変えて脱出し、それを鳶がくわえてどこかに飛び去ったともいう<ref>恕翁『虚実雑談集』1749</ref>。
*果心居士は地獄を描いた一幅のみごとな絵を持っていて、それを前に群衆に説法し、喜捨を募って生活していた。織田信長がその絵を所望したが断られたので、信長の家臣が淋しい場所で居士を斬り殺し、絵を奪った。信長がその絵を広げると、絵はただの白紙になっていた。
 
*しばらくのち、死んだはずの果心居士がもとのように絵を見せて説法をしているという情報が届いた。信長の前に連れてこられた居士は「正当な代金をお支払いくだされば、絵は元の場所に戻るでしょう」と答えた。信長が金百両を支払うと、白紙の画面に、ふたたび絵が現れた。
果心居士に関する資料の多くは江戸時代に書かれたものであり、
*明智光秀は果心居士の評判を聞き、屋敷に呼んで酒を振舞った。酔った彼はお礼に術を見せましょうと言い、琵琶湖を描いた屏風を指差した。すると屏風から水があふれ出し、座敷は水浸しになった。果心居士が屏風から座敷に漕ぎ出てきた舟に乗り込むと、舟はふたたび絵の中に姿を消した。それ以来、彼は二度と日本に現れることはなかった。<ref>これらの逸話は事実とは考えられないが、[[奇術]]の原理で説明できるものとして「果心居士=奇術師」という説もある{{sfn|藤山|2005|pp=65-69}}。</ref>
 
== 脚注 ==