「ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ」の版間の差分

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1945年の3月から5月まで、シュラーブレンドルフは[[ザクセンハウゼン強制収容所|ザクセンハウゼン]]、[[フロッセンビュルク強制収容所|フロッセンビュルク]]、[[ダッハウ強制収容所|ダッハウ]]といった強制収容所に収容された後、連合軍の手に渡らないようにチロルへ移送されたが、ドイツが降伏した後の5月になり、[[アメリカ軍]]によって解放された。
 
[[ニュルンベルク裁判]]の期間中は、アメリカ軍の戦略諜報局([[Office of Strategic Services|Office of Strategic Services)]]の顧問を務めた。[[1946年]]、軍部内の反ヒトラー抵抗運動に関する最初の書物となる手記を刊行。後年アメリカ[[中央情報局]](CIA)が公開した資料によれば、[[西ドイツ]]の初代首相[[コンラート・アデナウアー]]はシュラーブレンドルフを[[連邦憲法擁護庁]]の初代長官に指名したが、シュラ―ブレンドルフ自身が健康状態を理由に辞退した。
 
戦後は弁護士として活動し、1955年から2年間は新設される[[ドイツ連邦軍]]の人事審査委員を務めた。1967年には[[ドイツ連邦共和国功労勲章]]を受章した。[[1967年]]から[[1975年]]まで西ドイツの[[連邦憲法裁判所]]の裁判官を務める。1980年、[[ヴィースバーデン]]で死去。
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==関連項目==
*[[ヒトラー暗殺計画]]
 
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[[categoryCategory:ドイツ第三帝国の軍人]]
[[Category:反ナチ運動に関連する人物]]
[[Category:西ドイツの人物]]
[[Category:ドイツの裁判官]]
[[categoryCategory:ドイツの弁護士]]
[[Category:ハレ (ザーレ)出身の人物]]
[[Category:1907年生]]