削除された内容 追加された内容
124.255.23.195 (会話) による ID:62414073 の版を取り消し
編集の要約なし
4行目:
 
== 人物 ==
[[伊勢国]]の[[安濃津|津]](現、[[三重県]][[津市]])の[[医者]]の家に生まれ、[[京都]]に出て[[医学]]を学ぶ傍ら、[[玉木正英]](葦斎)から[[垂加神道]]を学ぶ。津に帰った後、[[私塾|家塾]]「洞津谷川塾」を開いて[[門人]]を指導した。また、[[有栖川宮職仁親王]]から[[和歌]]を学び、医業に精を出す一方で、[[独学]]で[[国学]]を研究した
津に帰った後、[[私塾|家塾]]「洞津谷川塾」を開いて門人を指導した。また、[[有栖川宮職仁親王]]から[[和歌]]を学び、医業に精を出す一方で、[[独学]]で[[国学]]を研究した。
 
[[宝暦事件]]と[[明和事件]]によって[[竹内式部]]が処罰されると、親しい交流のあった士清も逮捕される。士清は[[藤堂高朗]]の助けで事なきを得たが、士清が『読大日本史私記』で『[[大日本史]]』における誤りを一つ一つ痛烈に批判したことで、[[藤堂高嶷]]により士清は津以外の土地への出国を禁止され、長男の士逸は津への入国を禁止されたことにより、直接の学統は廃れていくことになった<ref>津藩の藩校である有造館が水戸の藩校の学風を取り入れていたことも、士清に対する厳しい処分に繋がったという。</ref>。
士清が[[国語学]]に残した功績は大きい。その著作『日本書紀通証』第1巻に収録した「和語通音」は日本初の[[動詞]]活用表であり、また、『和訓栞』は'''日本初の五十音順に配列された[[国語辞典]]'''であった{{dubious|date=2016-1}}。ただこの辞典は士清の存命中に全巻を刊行できず、士清の死後、遺族の手によって引き継がれ[[1887年]]([[明治]]20年)に全巻刊行された。
 
== 業績 ==
『日本書紀通証』は『[[日本書紀]]』全体にわたる最初の詳細な注釈であり、『日本書紀』を正確に解釈することで国体を明確にするという意図に基づいている。
 
士清が[[国語学]]に残した功績は大きい。その著作『日本書紀通証』第1巻に収録した「和語通音」は日本初の[[動詞]]活用表であり<ref>ただし例示された動詞の活用が実態にそぐわなかったり、理論的な説明が施されていなかったりなど、実用性は認めがたい。</ref>、また、『和訓栞』は'''日本初の五十音順に配列された[[国語辞典]]'''であった{{dubious|date=2016-1}}<ref>ただこの辞典は士清の存命中に全巻を刊行できず、士清の死後、遺族の手によって引き継がれ[[1887年]]([[明治]]20年)に全巻刊行された。</ref>
 
反面、士清の古典研究は、在来の学説を集成したもので、独創性に乏しいという評価がある。士清と交流があった[[本居宣長]]も「和語通音」は絶賛しているが、士清の古典解釈については垂加神道に基づくこじつけが多く非学問的だと批判している。
14 ⟶ 18行目:
*『日本書紀通証』
*『和訓栞』
*『大日本史私記』
*『勾玉考』
*『鋸屑譚』
 
== 参考文献 ==
* 谷川士清先生事蹟表彰会編『谷川士清先生伝』(1911年・大日本図書)
* 加藤竹男『谷川士清先生』(1924年・谷川士清先生遺蹟保存会)
* 加藤武男『国学者谷川士清の研究』(1934年・湯川弘文社)
* 谷川士清顕彰保存会編『谷川士清小伝』(1972年・谷川士清顕彰保存会)
* 谷川士清顕彰保存会編『資料・谷川士清をめぐる人々』(1975年・谷川士清顕彰保存会)
* 北岡四良『近世国学者の研究』(1977年・故北岡四良教授遺稿集刊行会)
* 谷川士清生誕300年記念事業実行委員会編『士清さん : 谷川士清生誕三百年記念誌』(2011年・谷川士清生誕300年記念事業実行委員会)
* 谷川士清の会編『谷川士清をめぐる人々』(2011年・谷川士清の会)
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
{{Normdaten}}