「アレイスター・クロウリー」の版間の差分
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Doomreaper (会話 | 投稿記録) m 東方聖堂騎士団が日本語の正式名称([http://www.otojapan.org/japanese/index.html 東方聖堂騎士団日本支部]参照) |
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ハネムーンを終えたクロウリーは、[[セレマ|セレマ思想]]の価値を巡る論争から師匠[[マグレガー・メイザース|メイザース]]と対立して袂を分かつ事になり、自身の独立を模索するようになった。その中で長女リリスが誕生し喜びに包まれた。1906年、自身の道を定める為に再び世界一周へと旅立った彼は、[[ヒマラヤ山脈]]で[[カンチェンジュンガ]]登頂に挑戦し、またビルマの[[黄金の三角地帯]]では[[阿片]]の研究も行なった。その帰国後にリリスが病死しクロウリーは悲しみに沈んだ。妻ローズはリリスを連れてインドで一時行動を共にしており、そこで[[チフス熱]]に感染したのが原因だった。その為、クロウリーは愛娘を失った悲嘆の矛先をローズに向けてしまい二人の仲も急速に冷え込む事になった。同時にここからクロウリーの倒錯傾向が目立ち始めている。
1907年に次女ローラが誕生し、笑顔を取り戻したクロウリーは魔術結社「[[銀の星]]」を結成した。自身を魔術師[[エリファス・レヴィ]]の生まれ変わりと称して[[セレマ|セレマ思想]]の伝道に取り組み、魔術の著作と詩集を次々と発表した。1909年に[[アルコール依存症]]に陥った妻ローズと止む無く離婚したがその後も交流は続けられ、ローラの親権はローズ側に譲られた。1912年になるとドイツのオカルト団体「[[東方聖堂騎士
=== 1924~1947年(中高年~老年期) ===
イタリアを追われた後のクロウリーは、[[チュニジア]]に向かい過度の麻薬依存からの回復を試みたが上手くいかなかった。前年に死去した
1939年の[[第二次世界大戦]]勃発直前にクロウリーは母国イギリスに帰還した。この頃のすでに還暦を過ぎたクロウリーはほとんど無一文になっていたので、各地の弟子達に生活の面倒を見てもらうようになった。その中でも高級な葉巻とシャンパンを嗜むライフスタイルはできる限り維持し、彼の思想に魅せられた人々の訪問を受け入れて交流を重ねた。晩年のクロウリーはその波乱と狂騒に満ちた人生とは対照的に、英国[[イーストサセックス]]州の静かな片田舎でひっそりと息を引き取った。享年72歳であった。
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*1907年 - 次女ローラが誕生する。魔術結社・[[銀の星]](A∴A∴)を結成し、春秋分点(''The Equinox'')と題した機関誌で多数の詩と魔術論文を発表する。
*1909年 - 妻ローズと離婚する。[[アルジェリア]]に滞在し数々の魔術儀式を行なう。
* 1912年 - ドイツの秘教団体・[[東方聖堂騎士
*1914年 - O.T.O.の活動でアメリカ訪問中に第一次世界大戦が始まり、終戦まで滞在を余儀なくされる。
*1920年 - [[シチリア|シチリア島]]の[[チェファル]]に{{仮リンク|テレマ僧院|en|Abbey of Thelema}}を開設する。ここで様々な魔術の実践研究を行い薬物なども利用された。イタリア治安当局に問題視され1923年に国外退去を命じられた。
*1923年 - O.T.O.の指導者ロイスが死去しその後継者に指名されて団体を受け継ぐ。以降のクロウリーはこの東方聖堂騎士団(O.T.O.)の運営と発展に力を注いだ。
*1924年 - 健康状態が悪化し、[[チュニジア]]で麻薬依存からの回復を試みるが失敗する。
*1925年 - フランスに向かい各地で活動する。28年に[[イスラエル・リガルディー|I・リガルディー]]が秘書になる。29年に治安当局から国外退去を命じられる。
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