「ポーランド・ソビエト戦争」の版間の差分

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| commander1 = [[ファイル:Flag of Russian SFSR (1918-1937).svg|border|25px|ロシアSFSRの旗]] [[レフ・トロツキー]]<br />[[ファイル:Flag of Russian SFSR (1918-1937).svg|border|25px|ロシアSFSRの旗]] [[ミハイル・トゥハチェフスキー]]<br />[[ファイル:Flag of Russian SFSR (1918-1937).svg|border|25px|ロシアSFSRの旗]] [[アレクサンドル・エゴロフ]]<br />[[ファイル:Flag of Russian SFSR (1918-1937).svg|border|25px|ロシアSFSRの旗]] [[ヨシフ・スターリン]]<br />[[ファイル:Flag of Russian SFSR (1918-1937).svg|border|25px|ロシアSFSRの旗]] [[セミョーン・ブジョーンヌイ]]
| commander2 = [[ファイル:Flag of Poland (1919-1928).svg|border|25px|ポーランドの旗]] [[ユゼフ・ピウスツキ]]<br />[[ファイル:Flag of Poland (1919-1928).svg|border|25px|ポーランドの旗]] [[エドヴァルト・リッツ=シミグウィ]]<br />{{Flagicon|POL}} [[ヴワディスワフ・シコルスキ]]<br />[[ファイル:Flag of Ukrainian People's Republic 1917.svg|border|25px|ウクライナの旗]] [[シモン・ペトリューラ]]
| strength1 = 800,000 - 900950,000
| strength2 = 750,000 - 850738,000
| casualties1 = 10067,000 - 150戦死</br>80,000—200,000+ 捕虜
| casualties2 = 6047,000—72,000 戦死 </br>113,518 戦傷 </br>51,351 捕虜
}}
 
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4月には、ポーランドに亡命していたペトリューラはポーランドとの間に{{仮リンク|ワルシャワ条約 (1920年)|en|Treaty of Warsaw (1920)|pl|Umowa warszawska 1920|ru|Варшавский договор (1920)|uk|Варшавський договір (1920)|label=ワルシャワ条約}}を結び、彼の再建したウクライナ人民共和国をウクライナを代表する唯一の政府として認め、互いに単独講和を結ばない、戦後は東ハリチナーをポーランドに割譲するなどを条件に彼の率いる執政内閣([[ディレクトーリヤ]])軍がポーランドと共に戦うことになった。ペトリューラは、何よりもまずボリシェヴィキを憎んでおり、それを倒すためであれば、ウクライナ民族主義思想の宿敵であるはずの多民族国家ポーランドとの連合も辞さなかった。
 
[[ファイル:Vladimir Lenin Leon Trotsky Lev Kamenev 1920.jpg|250px|サムネイル|左|レーニンは1920年5月にロシア軍の前で話をしました。]]
一方、ポーランド軍は赤軍の攻勢の前に先制攻撃を行うことを計画し、4月から進撃を開始した。ポーランド第3軍はペトリューラ軍と共同し、[[5月7日]](または[[5月6日]])にキエフを占領した。しかし赤軍は直ちに反撃を行い、北部においては赤軍の反撃は成功、ポーランド第1軍は大きく後退した。[[5月24日]]に南部のポーランド軍も[[セミョーン・ブジョーンヌイ]]率いる第1騎兵軍の[[コサック]]の攻撃を受けた。[[6月10日]]頃までにポーランド軍の敗退は決定的になり、ペトリューラも[[6月13日]](または[[6月12日]])にキエフを放棄して撤退した。