「ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体」の版間の差分
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[[File:Declaration 1939.jpg|thumb|240px|1939年3月15日に調印された、「[[チェコスロバキアの大統領]][[エミール・ハーハ]]と外相{{仮リンク|フランティシェク・フヴァルコフスキー|en|František Chvalkovský|}}の要請により」、[[チェコ]]が[[ベーメン・メーレン保護領|ドイツの保護下]]に入ることを定めた宣言文]]
'''ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体'''
チェコスロバキア解体は、ドイツ、[[ハンガリー王国 (1920年-1946年)|ハンガリー]]、[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]に領土を分割させられる[[1938年]]の第
== 背景 ==
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スロバキアとカルパティア・ルテニアは北部ハンガリーと呼ばれ、[[ハンガリー王国の歴史的地域]]であった。一方でチェコスロバキア大統領[[トマーシュ・マサリク]]はスロバキアの連邦参加を求めていた。さらに[[ルーマニア王国]]もハンガリー領[[トランシルヴァニア]]の領有を狙っていた([[大ルーマニア]])。両国はハンガリーとの国境地帯に軍を配置し、ハンガリー政府に圧力をかけた。
1919年3月、ハンガリーでは[[クン・ベーラ]]の率いる[[ハンガリー・ソビエト共和国]]が成立した。クン・ベーラの[[共産主義]]政権は民衆の支持を得られず、ハンガリーは混乱した。これを好機と見て、4月にはルーマニアがハンガリーに侵攻した([[ハンガリー・ルーマニア戦争]])。いっぽう、6月には海軍大将[[ホルティ・ミクローシュ]]が蜂起し、南部にハンガリー政府を建設した。8月にはルーマニア軍によってハンガリーの首都[[ブダペスト]]が占領され、ハンガリー・ソビエト共和国は倒れ、クン・ベーラは国外に逃亡した。ホルティの政府が後継のハンガリー政府となったが、ルーマニア軍は撤兵に応じなかった。11月、ルーマニア軍はトランシルヴァニアの割譲を条件として撤兵した。
[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]はハンガリー問題を解決するため、1920年[[トリアノン条約]]による領域確定を行った。これは第一次世界大戦の講和条約でもあり、動乱の続いたハンガリーはこれを受け入れるほか
領域の大半を失ったハンガリー国内にはチェコスロバキアに対する敵愾心が生まれ、スロバキアとカルパティア・ルテニアの奪回を目指すようになった。
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