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近代には、日本と[[清]]との間で[[下関条約]]が締結された後の[[1897年]]、朝鮮国([[李氏朝鮮]])が、清の冊封体制から離脱したことを明らかにするために、王を皇帝に改め、国号を[[大韓帝国]]([[1897年]] - [[1910年]])とした例がある。
=== 日本
{{see also|日本国皇帝}}
[[Image:General power of attorney to Lee Wan-Yong signed and sealed by Sunjong.jpg|right|thumb|「[[韓国併合ニ関スル条約]]」に関する[[李完用]]への全権委任状。文中に「大日本國皇帝陛下」と書かれている。]]
古代の日本は、中国の三皇の一つ「[[天皇]]」を、和名の君主号「すめらみこと」に当てた。歴史学者の間では、「天皇」という称号の出現は[[天武天皇]]の時代とする説が有力である。「天皇」号の使用は、607年[[聖徳太子]]が[[隋]]の[[煬帝]]に送った手紙において、隋との対等を表明するため「日出づる処の天子」や「東の天皇」と記したことに由来し、663年の[[白村江の戦い]]において唐・[[新羅]]連合軍に敗れたことで、明確に唐と対等の独立国家であることを主張するためにとられた方策であったと考えられる。
[[
天皇(すめらみこと)と異なる用法での尊号としては、758年に[[淳仁天皇]]が即位した際、譲位した[[孝謙天皇]]に「宝字称徳孝謙皇帝」、孝謙の父[[聖武天皇]]に「勝宝感神聖武皇帝」の尊号が贈られている。また、翌年には淳仁天皇の父である[[舎人親王]]が「崇道尽敬皇帝」と追号されている。「文武天皇(もんむてんのう)」といった今日使われている漢風諡号は、聖武および孝謙(称徳)を除き8世紀後半に[[淡海三船]]が撰んだことに始まる<ref>『[[国史大辞典]]』「天皇」</ref>ため、その直後に完成した『[[続日本紀]]』では原則として巻名に天皇の和風諡号が用いられているが、孝謙天皇のみ巻第十八から巻第二十まで「宝字称徳孝謙皇帝」の漢風尊号で記載されている点で特異である<ref>また『続日本紀』では[[宝亀]]5年([[774年]])10月3日条において、「聖武皇帝」という表記がみられる。この他、[[9世紀]]成立の『[[日本文徳天皇実録]]』では、「[[仁明天皇]]」の表記と共に「仁明皇帝」という表記も併用されている。</ref>。なお、重祚した巻第二十六から巻第三十では巻名に「高野天皇(たかののすめらみこと)」の和風の号が用いられている(重祚後の漢風諡号は称徳天皇)。
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近世以降の西洋においては、日本に関する最大の情報源である[[エンゲルベルト・ケンペル]]著の『[[日本誌]]』において、徳川将軍は「世俗的皇帝」、天皇は「聖職的皇帝」([[教皇]]のようなもの)と記述され、両者は共に皇帝と見なされていた。その一年前に出版された『[[ガリバー旅行記]]』においても、主人公のガリバーが「江戸で日本の皇帝と謁見した」と記載されている。
[[安政]]3年([[1854年]])の[[日米和親条約]]では条約を締結する日本の代表、すなわち徳川将軍を指す言葉として「{{en|the August Sovereign of Japan}}」としている。これは大清帝国皇帝を指す「{{en|the August Sovereign of Ta-Tsing Empire}}」と同じ用法であり、アメリカ側は将軍を中華皇帝と同様のものと認識していた{{sfn|岡本隆司|2011|pp=144}}。しかし日本
[[慶応]]4年1月15日(1868年)、新政府が外交権を掌握すると、[[兵庫港]]で各国外交団に「天皇」号を用いるよう伝達し、外交団もこれに従った{{sfn|島善高|1992|p=269}}。しかし外国君主に対する「国王」号の使用が、外交団から反発を受け、「皇帝」号を使用するよう要求された。日本は「皇帝」は中国([[清]])の号であるから穏当ではないとし、各国言語での呼び方をそのままカタカナで表記する方針を提案したが、各国外交団はあくまで「皇帝」の使用を求めた。このままでは国家対等の原則から外国君主に対しても「天皇」号を用いなければならない事態に陥る可能性もあった<ref>実際に、フランス公使がフランス皇帝[[ナポレオン3世]]にも天皇号を用いるべきではないかと強く要求した。日本側は君主が対等だから同じ称号を名乗るのであれば、「[[ローマ教皇|法王(ローマ教皇)]]」を名乗ってもよいのかと返答したために、フランス側はこの提案を撤回している{{harv|島善高|1992|p=276}}</ref>{{sfn|島善高|1992|p=274-278}}。結局明治3年(1870年)8月の「[[外交書法]]」の制定で、日本の天皇は「日本国大天皇」とし、諸外国の君主は「大皇帝」と表記するよう定められた{{sfn|島善高|1992|p=279}}。
{{Wikisource|締盟國君主稱號和公文ニハ總テ皇帝ト稱シ共和政治ノ國ハ大統領ト稱セシム|締盟国君主称号和公文ニハ総テ皇帝ト称シ共和政治ノ国ハ大統領ト称セシム}}▼
ただし[[李氏朝鮮]]との関係では、朝鮮を「自主ノ邦」<ref>[[日朝修好条規]]</ref>としながらも、冊封関係を否定することを恐れていた朝鮮側を考慮し、「君主」や「国王」の称号を用いながらも、「陛下」や「勅」など皇帝と同様の用語を使用していた<ref>{{アジア歴史資料センター|C06060598600|29.1 外務省より 朝鮮大君主陛下より水野大佐へ勅語等の件|3=1}}</ref>。日清戦争後、朝鮮が国号を大韓と改め、皇帝を称するようになると「皇帝」の称号が正式に使われるようになった<ref>[[日韓議定書]]等</ref>。▼
しかし明治4年に清と締結された「[[日清修好条規]]」では両国の君主称号は表記されていない。これは清側が天皇号を皇帝すら尊崇する[[三皇五帝]]の一つ「[[天皇 (三皇)|天皇氏]]」と同一のものであるから、君主号とは認められないと難色を示したためであった{{sfn|島善高|1992|p=282-286}}。明治6年1月(1873年)頃から次第に外交文書で「皇帝」の使用が一般化するようになったが、これは対中国外交で「天皇」号を用いていないことが、再び称号に関する議論を呼び起こすことを当時の政権が懸念したためと推測されている{{sfn|島善高|1992|p=286-287}}。この時期以降、外国からの条約文などでも「Mikado」や「Tenno」の使用は減少し、「Emperor」が使用されていくようになった{{sfn|島善高|1992|p=287}}。
▲{{Wikisource|締盟國君主稱號和公文ニハ總テ皇帝ト稱シ共和政治ノ國ハ大統領ト稱セシム|締盟国君主称号和公文ニハ総テ皇帝ト称シ共和政治ノ国ハ大統領ト称セシム}}
▲日本政府は明治7年7月25日の太政官達第98号により、これ以降の公文書において、条約締結を行った君主国の君主を全て(国名は「○○王国」であっても)「皇帝」と呼称することになった。ただし実際にはこの措置は王国に限られ、[[ルクセンブルク大公]]、[[モンテネグロ公国|モンテネグロ公]]、[[大ブルガリア公国|ブルガリア公]]、[[モナコ|モナコ公]]等、[[公国]]の君主に対しては「大公」もしくは「公」と呼称されている<ref>{{アジア歴史資料センター|B04013504600|各国間文化協力関係条約雑件 28.「ベルギー」「ルクセンブルク」大公国間智的及学事的協定}}{{アジア歴史資料センター|A08072611600|経済統計に関する国際条約、議定書及付属書}}{{アジア歴史資料センター|A03020484300|御署名原本・明治三十三年・条約十一月二十一日・国際紛争平和的処理条約}}{{アジア歴史資料センター|A03020879500|御署名原本・明治四十三年・条約第五号・文学的及美術的著作物保護修正「ベルヌ」条約}}</ref>。また、対外向けの呼称としても、天皇を「皇帝」と称するケースが多々見られる([[日本国皇帝|日本国皇帝ないし大日本帝国皇帝]])。また[[明治]]から[[大正]]にかけては、外交文書に限らず国内向けの公文書においても「[[日本国皇帝]]」の称号が使われているケースがしばしば見られる。
これ以降、天皇号の他に皇帝号の使用も行われ、民選の[[私擬憲法]]や[[元老院 (日本)|元老院]]の「[[日本国憲按]]」などでも皇帝号が君主号として採用されている{{sfn|島善高|1992|p=288}}。また陸軍法の[[参軍官制]]や[[師団司令部条例]]でも皇帝号を用いている{{sfn|島善高|1992|p=293}}。政府部内でも統一した見解はなかったが、明治22年([[1889年]])の[[旧皇室典範|皇室典範]]制定時に[[伊藤博文]]の裁定で「天皇」号に統一すると決まり、[[大日本帝国憲法]]でも踏襲されている{{sfn|島善高|1992|p=290-291}}。伊藤は外交上でも天皇号を用いるべきと主張したが、同年5月に[[枢密院 (日本)|枢密院]]書記官長の[[井上毅]]が外務省に対して下した見解では、「大宝令」を根拠として外交上に「皇帝」号を用いるのは古来からの伝統であるとしている{{sfn|島善高|1992|p=293}}。井上は議長の指揮を受けて回答したとしているが、この当時の枢密院議長は伊藤である{{sfn|島善高|1992|p=293}}。この方針は広く知られなかったらしく、後に陸軍も同内容の問い合わせを行っている{{sfn|島善高|1992|p=293-295}}。
大正10年4月11日の大正十年勅令第三十八号<ref>{{アジア歴史資料センター|A03021310100|御署名原本・大正十年・勅令第三十八号・明治四年八月十七日布告(請願伺届等認メ方ノ件)外二十一件廃止}}</ref>で皇帝と記載する太政官達は廃止されたが、以降の条約等<ref>{{アジア歴史資料センター|A03021828900|御署名原本・昭和六年・条約第一号・千九百三十年ロンドン海軍条約}}</ref>でも国王や天皇に対して皇帝の称が使用されている。▼
▲大正10年4月11日の大正十年勅令第三十八号<ref>{{アジア歴史資料センター|A03021310100|御署名原本・大正十年・勅令第三十八号・明治四年八月十七日布告(請願伺届等認メ方ノ件)外二十一件廃止}}</ref>で外国君主を皇帝と記載する太政官達は廃止されたが、以降の条約等<ref>{{アジア歴史資料センター|A03021828900|御署名原本・昭和六年・条約第一号・千九百三十年ロンドン海軍条約}}</ref>でも国王や天皇に対して皇帝の称が使用されている。
▲ただし[[李氏朝鮮]]との関係では、朝鮮を「自主ノ邦」<ref>[[日朝修好条規]]</ref>としながらも、冊封関係を否定することを恐れていた朝鮮側を考慮し、「君主」や「国王」の称号を用いながらも、「陛下」や「勅」など皇帝と同様の用語を使用していた<ref>{{アジア歴史資料センター|C06060598600|29.1 外務省より 朝鮮大君主陛下より水野大佐へ勅語等の件|3=1}}</ref>。日清戦争後、朝鮮が国号を大韓と改め、皇帝を称するようになると「皇帝」の称号が正式に使われるようになった<ref>[[日韓議定書]]等</ref>。
国内使用では殆どの場合が「天皇」号が用いられたが、「日露戦争宣戦詔勅」など一部の[[詔書]]・法律で皇帝号の使用が行われた。大正期までは特に大きな問題とはならなかったが{{sfn|島善高|1992|p=296}}、昭和期になると[[国体明徴運動]]が活発となり、昭和8年([[1933年]])には外交上も「天皇」号を用いるべきとの議論が起きた{{sfn|島善高|1992|p=297-298}}。外務省は条約の邦訳に対してのみ「天皇」号を用いるが、特に発表はしないことで解決しようとしたが、[[宮内省]]内の機関紙の記事が新聞社に漏れ、昭和11年([[1936年]])4月19日に大きく発表を行わざるを得なくなった{{sfn|島善高|1992|p=306-307}}。ただし、外国語においては従来どおりとされた{{sfn|島善高|1992|p=311}}。
== ヨーロッパの皇帝 ==
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|isbn = 978-4767410265
|ref = harv}}
*{{Cite journal|和書|author=島善高|authorlink=島善高 |title=近代日本における天皇号について|year=1992 |publisher=早稲田大学社会科学部学会|journal=早稻田人文自然科學研究|volume=41|naid=120000793354 |pages=265-314 |ref=harv}}
*{{Cite journal|和書|author=[[岡本隆司]] |title=大君と自主と独立 : 近代朝鮮をめぐる翻訳概念と国際関係 (特集 近代日本の外交)|date=2011 |publisher=慶應義塾福沢研究センター |journal=近代日本研究|volume=28|naid=40019224424 |pages=143-175 |ref=harv}}
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