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'''アルマニャック派'''([[フランス語|仏]]:Armagnacs)は、かつて[[百年戦争]]期の[[フランス王国|フランス]]に存在した派閥である。フランスの主導権を巡り[[ブルゴーニュ派]]と争った。

始め[[オルレアン]]派と呼ばれたが、中心人物の[[アルマニャック]]伯[[ベルナール7世 (アルマニャック伯)|ベルナール7世]]の爵位から取って改名された。
 
== 経過 ==
=== 起源 ===
{{Quotation|
この派閥の起こりは、[[1407年]]に国王[[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]の弟[[オルレアン公]][[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|ルイ]]が従兄弟で政敵の[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ]][[ブルゴーニュ公一覧|公]][[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン1世]](無怖公)に[[暗殺]]されたことに始まり、無怖公率いるブルゴーニュ派に反発した貴族が[[1410年]]に[[ベリー公]][[ジャン1世 (ベリー公)|ジャン1世]](シャルル6世とオルレアン公の叔父)の呼びかけに応じてジアン同盟を結成した。やがてオルレアン公の息子で後を継いだ[[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル]]の舅であるアルマニャック伯が実権を握り、他の貴族と共にブルゴーニュ派と軍事衝突していった。
;主要人物の系図
{{ブルゴーニュ派・アルマニャック派の系図}}
}}
1380年9月にシャルル5世が崩御した後、11歳の[[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世(狂気王)]]のおじ達は、1380年11月30日に、協同統治の盟約を結んだ<ref>[[#佐藤 2003|佐藤 2003]] p.123-124</ref>。そのうち、[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]][[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン1世]](無怖公)がフランス国政に影響力を持つようになった<ref name="sato2003-124">[[#佐藤 2003|佐藤 2003]] p.124</ref>。
 
1388年、シャルル6世は親政を執り、ジャン無怖公に対抗すべく、旧臣や弟の[[オルレアン公]][[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|ルイ]]を重用したため、無怖公と対立した<ref name="sato2003-124"/>。ところが、その矢先に1392年8月5日に精神障害([[ガラス妄想]])の発作を起こして以降、1400年頃までに統治が不可能になった<ref>[[#佐藤 2003|佐藤 2003]] p.124-125</ref>。オルレアン公ルイは、国王の代弁者となった王妃[[イザボー・ド・バヴィエール|イザボー]]と愛人関係になった<ref name="sato2003-125">[[#佐藤 2003|佐藤 2003]] p.125</ref>。[[1407年]]、ついにオルレアン公ルイは、ジャン無怖公率いる[[ブルゴーニュ派]]に[[暗殺]]された。再びブルゴーニュ派が権力を持つが、イザボー王妃がジャン無怖公と愛人関係になったとする説もある<ref name="sato2003-125"/>。
 
この派閥の起こりは、[[1407年]]に国王[[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]の弟[[オルレアン公]][[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|ルイ]]が従兄弟で政敵の[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ]][[ブルゴーニュ公一覧|公]][[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン1世]](無怖公)に[[暗殺]]されたことに始まり、無怖公率いるブルゴーニュ派に反発した貴族が[[1410年]]に[[ベリー公]][[ジャン1世 (ベリー公)|ジャン1世]](シャルル6世とオルレアン公の叔父)の呼びかけに応じてジアン同盟を結成した。やがてオルレアン公の息子で後を継いだ[[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル]]の舅であるアルマニャック伯が実権を握り、他の貴族と共にブルゴーニュ派と軍事衝突していった。
 
主要メンバーはベリー公と姻戚関係にある王族・貴族がほとんどで、オルレアン公を盟主としてベリー公の2人の婿であるアルマニャック伯(長女[[ボンヌ・ド・ベリー|ボンヌ]]の夫)・[[ブルボン公]][[ジャン1世 (ブルボン公)|ジャン1世]](次女[[マリー・ド・ベリー|マリー]]の夫)、[[ブルターニュ公国|ブルターニュ]][[ブルターニュ君主一覧|公]][[ジャン5世 (ブルターニュ公)|ジャン5世]]と妹マリーの夫で王族の[[ヴァロワ=アランソン家|アランソン公]][[ジャン1世 (アランソン公)|ジャン1世]]、ブルボン公の長男でベリー公の外孫でもある[[クレルモン伯]][[シャルル1世 (ブルボン公)|シャルル]](後のシャルル1世)が同盟を締結した<ref>堀越、P66 - P76、エチュヴェリー、P68 - P76、清水、P79 - P87、城戸、P95 - P102。</ref>。
 
=== フランス王国の主導権争い ===
両派の内戦は[[1411年]]7月から始まり一進一退だったが、状況を有利にするために両派は[[イングランド王国|イングランド]]の支援を求めていた。先にイングランドと交渉していたブルゴーニュ派が10月にイングランドの援軍2000人を得て首都[[パリ]]を奪ったが、翌[[1412年]]1月にイングランドで政変が起こり方針転換、それにより5月にアルマニャック派とイングランドの同盟が成立、ブルゴーニュ派は排除された。しかし両派とも内戦に疲れ8月に和睦、イングランドは一方的に同盟を破られる形になり、8月から11月にフランスへ派兵した4000人の兵も撤収せざるを得なかった<ref>堀越、P77 - P79、エチュヴェリー、P77 - P80、清水、P88 - P91、城戸、P106 - P110。</ref>
 
しかし両派とも内戦に疲れ8月に和睦、イングランドは一方的に同盟を破られる形になり、8月から11月にフランスへ派兵した4000人の兵も撤収せざるを得なかった<ref>堀越、P77 - P79、エチュヴェリー、P77 - P80、清水、P88 - P91、城戸、P106 - P110。</ref>。
[[1413年]]、パリで親ブルゴーニュ派の屠殺業者{{仮リンク|シモン・カボシュ|fr|Simon Caboche}}(シモン・ル・クートリエ)が市民を扇動してアルマニャック派と見られた官僚達を虐殺({{仮リンク|カボシュの反乱|fr|Révolte des Cabochiens}})、憤慨したシャルル6世と[[ルイ・ド・ギュイエンヌ|ルイ]][[ドーファン|王太子]]ら宮廷派はアルマニャック派に助けを求め、応じたアルマニャック派は8月に暴徒を鎮圧し無怖公らブルゴーニュ派はパリを脱出した。こうして宮廷を掌握したアルマニャック派だったが、[[1415年]]にフランス遠征を開始したイングランド王[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]を撃破しようとして[[アジャンクールの戦い]]で大敗、アランソン公は戦死、オルレアン公とブルボン公は捕虜となり、ブルターニュ公も弟[[アルテュール3世 (ブルターニュ公)|アルテュール・ド・リッシュモン]]が捕らえられイングランドに反抗出来なくなり、アルマニャック派は大打撃を受けた。同年と翌[[1416年]]に王太子とベリー公も死去、[[1417年]]から行われたヘンリー5世のフランス征服にもアルマニャック派はなす術が無かった。[[1418年]]にブルゴーニュ派が扇動したパリ市民の再度の暴動でアルマニャック伯は殺され、パリは再びブルゴーニュ派が制圧した<ref>堀越、P79 - P100、エチュヴェリー、P80 - P106、清水、P91 - P107、城戸、P110 - P112、P121 - P126。</ref>。
 
[[1413年]]、パリで親ブルゴーニュ派の屠殺業者{{仮リンク|シモン・カボシュ|fr|Simon Caboche}}(シモン・ル・クートリエ)が市民を扇動してアルマニャック派と見られた官僚達を虐殺({{仮リンク|カボシュの反乱|fr|Révolte des Cabochiens}})、憤慨したシャルル6世と[[ルイ・ド・ギュイエンヌ|ルイ]][[ドーファン|王太子]]ら宮廷派はアルマニャック派に助けを求めた。
だがこの頃になると、イングランドの勢力拡大に不安を感じた無怖公がアルマニャック派との和睦に動き出すが、新たに盟主となったシャルル王太子(後の[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]])らアルマニャック派は[[1419年]]に無怖公を暗殺したため、息子の[[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ3世]](善良公)とイングランドが同盟を結び、[[1420年]]の[[トロワ条約]]で将来の[[イングランド・フランス二重王国]]樹立が約束され、王太子は継承権を否定されるまでになってしまった。止む無くアルマニャック派は[[ブールジュ]]を中心としたフランス南部でイングランドに抵抗するが、[[1422年]]にヘンリー5世・シャルル6世亡き後に即位した[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]の叔父[[ベッドフォード公爵|ベッドフォード公]][[ジョン・オブ・ランカスター|ジョン]]を中心としたイングランド軍に押されていった。そうした中でも王太子の姑[[ヨランド・ダラゴン]]がブルゴーニュ派との和睦に取り組み、[[1424年]]にブルターニュ公も交えて善良公と王太子の休戦協定を結んだ。更にヨランドは計画を一層推し進め、翌[[1425年]]にイングランドから解放されたリッシュモンを[[フランス元帥]]に就任させ、無怖公の暗殺者などアルマニャック派強硬派を排除、宮廷を善良公との融和に近付けた<ref>堀越、P101 - P110、P135 - P138、エチュヴェリー、P110 - P117、P132 - P141、P149 - P151、清水、P107 - P111、P115 - P122、城戸、P127 - P129、P135 - P136。</ref>。
 
[[1413年]]、パリで親ブルゴーニュ派の屠殺業者{{仮リンク|シモン・カボシュ|fr|Simon Caboche}}(シモン・ル・クートリエ)が市民を扇動してアルマニャック派と見らた官僚達を虐殺({{仮リンク|カボシュの反乱|fr|Révolte des Cabochiens}})、憤慨したシャルル6世と[[ルイ・ド・ギュイエンヌ|ルイ]][[ドーファン|王太子]]ら宮廷派はアルマニャック派助けを求め、応じたアルマニャック派は8月に暴徒を鎮圧し無怖公らブルゴーニュ派はパリを脱出した。こうして宮廷を掌握したアルマニャック派だったが、[[1415年]]にフランス遠征を開始したイングランド王[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]を撃破しようとして[[アジャンクールの戦い]]で大敗、アランソン公は戦死、オルレアン公とブルボン公は捕虜となり、ブルターニュ公も弟[[アルテュール3世 (ブルターニュ公)|アルテュール・ド・リッシュモン]]が捕らえられイングランドに反抗出来なくなり、アルマニャック派は大打撃を受けた。同年と翌[[1416年]]に王太子とベリー公も死去、[[1417年]]から行われたヘンリー5世のフランス征服にもアルマニャック派はなす術が無かった。[[1418年]]にブルゴーニュ派が扇動したパリ市民の再度の暴動でアルマニャック伯は殺され、パリは再びブルゴーニュ派が制圧した<ref>堀越、P79 - P100、エチュヴェリー、P80 - P106、清水、P91 - P107、城戸、P110 - P112、P121 - P126。</ref>
 
同年と翌[[1416年]]に王太子とベリー公も死去、[[1417年]]から行われたヘンリー5世のフランス征服にもアルマニャック派はなす術が無かった。[[1418年]]にブルゴーニュ派が扇動したパリ市民の再度の暴動でアルマニャック伯は殺され、パリは再びブルゴーニュ派が制圧した<ref>堀越、P79 - P100、エチュヴェリー、P80 - P106、清水、P91 - P107、城戸、P110 - P112、P121 - P126。</ref>。
 
だがこの頃になると、イングランドの勢力拡大に不安を感じた無怖公がアルマニャック派との和睦に動き出すが、新たに盟主となったシャルル王太子(後の[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]])らアルマニャック派は[[1419年]]に無怖公を暗殺したため、息子の[[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ3世]](善良公)とイングランドが同盟を結び、[[1420年]]の[[トロワ条約]]で将来の[[イングランド・フランス二重王国]]樹立が約束され、王太子は継承権を否定されるまでになってしまった。
 
已む無くアルマニャック派は[[ブールジュ]]を中心としたフランス南部でイングランドに抵抗するが、[[1422年]]にヘンリー5世・シャルル6世亡き後に即位した[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]の叔父[[ベッドフォード公爵|ベッドフォード公]][[ジョン・オブ・ランカスター|ジョン]]を中心としたイングランド軍に押されていった。そうした中でも王太子の姑[[ヨランド・ダラゴン]]がブルゴーニュ派との和睦に取り組み、[[1424年]]にブルターニュ公も交えて善良公と王太子の休戦協定を結んだ。
 
更にヨランドは計画を一層推し進め、翌[[1425年]]にイングランドから解放されたリッシュモンを[[フランス元帥]]に就任させ、無怖公の暗殺者などアルマニャック派強硬派を排除、宮廷を善良公との融和に近付けた<ref>堀越、P101 - P110、P135 - P138、エチュヴェリー、P110 - P117、P132 - P141、P149 - P151、清水、P107 - P111、P115 - P122、城戸、P127 - P129、P135 - P136。</ref>。
 
=== ブルゴーニュ派との和睦 ===
交渉は順調に進むかに見えたが、リッシュモンがあまりに直情径行だったため王太子に遠ざけられ、代わりに[[ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユ]]が重用されるに伴いブルターニュ公がフランスから離れ、ブルゴーニュ派との交渉も中断され、リッシュモンとラ・トレモイユとの私戦が起こりアルマニャック派は内乱で分裂した。

[[1429年]]に[[ジャンヌ・ダルク]]が[[オルレアン包囲戦]]に勝利すると、リッシュモンは宮廷の反対を押し切りジャンヌに加勢して[[パテーの戦い]]でイングランド軍に勝利したが、宮廷の反感が強く再び遠ざけられ、シャルル7世の戴冠式で彼の正統性が認められても戦線は膠着していた。

だが、[[1431年]]にブルターニュ公が政略結婚でフランス側に戻り、[[1432年]]にリッシュモンがヨランドの要請で宮廷へ復帰、翌[[1433年]]にラ・トレモイユがリッシュモンらの[[クーデター]]で宮廷から追放されると、リッシュモンが中心となりアルマニャック派とブルゴーニュ派の交渉が再開、進展していった<ref>堀越、P138 - P140、エチュヴェリー、P155 - P165、P184 - P192、P202 - P206、清水、P122 - P124、P200 - P204、P351 - P353。</ref>。
 
[[1434年]]12月から翌[[1435年]]2月に[[ヌヴェール]]でリッシュモンは善良公との交渉を取りまとめ、7月にイングランドも交えた和睦交渉に参加した。途中でイングランドが離脱したため、フランスとブルゴーニュはヌヴェールの協定を元にして和睦条件を決め、[[9月21日]]に[[アラスの和約 (1435年)|アラスの和約]]が締結されアルマニャック派とブルゴーニュ派の対立は解消、善良公はイングランドと手を切りフランスと結ぶことになった。
 
[[1434年]]12月から翌[[1435年]]2月に[[ヌヴェール]]でリッシュモンは善良公との交渉を取りまとめ、7月にイングランドも交えた和睦交渉に参加した。途中でイングランドが離脱したため、フランスとブルゴーニュはヌヴェールの協定を元にして和睦条件を決め、[[9月21日]]に[[アラスの和約 (1435年)|アラスの和約]]が締結されアルマニャック派とブルゴーニュ派の対立は解消、善良公はイングランドと手を切りフランスと結ぶことになった。和約はシャルル7世が善良公に無怖公暗殺事件を謝罪、善良公のフランスへの臣従免除、フランスの土地をいくつか善良公へ分割するなどシャルル7世が代償を払う項目が多かったが、これにより派閥抗争は無くなり、宮廷はリッシュモンの下でまとめられた。以後、リッシュモンはフランス軍を動員し、[[1436年]]のパリ奪回を皮切りにイングランドの反撃を進めていった<ref>エチュヴェリー、P211 - P224、清水、P354 - P362、城戸、P217 - P219、P246 - P253。</ref>。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
=== 注釈 ===
{{reflist|group=注釈|1}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=[[佐藤賢一]] |title=英仏百年戦争|publisher=[[集英社]] |series=[[集英社新書]]|date=2003-11-14|isbn=978-4087202168|ref=佐藤 2003}}
{{参照方法|section=1|date=2019年10月}}<!--文節ごとにまとめているため不正確かつ編集に不便-->
* [[堀越孝一]]『ジャンヌ=ダルクの百年戦争』[[清水書院]]、1984年。
* [[ジャン=ポール・エチュヴェリー]]著、[[大谷暢順]]訳『百年戦争とリッシュモン大元帥』[[河出書房新社]]、1991年。