「依仁親王妃周子」の版間の差分

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== 略歴 ==
[[東京女学館小学校|東京女学館]](現:[[東京女学館小学校]])、[[東洋英和女学院中学部・高等部|東洋英和女学校]](現:[[東洋英和女学院中学部・高等部]])出身。[[1898年]](明治31年)、依仁親王と結婚する。容姿端麗で、駐日の欧米外交官との社交で活躍。1893年(明治26年)に来日したオーストリア皇太子[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ]]は、舞踏会で会った依仁親王妃の周子を「きわめて美しく魅力にあふれた女性」と評し、結婚わずか8日後に夫の依仁親王がヨーロッパへ出発したと聞いて同情したと記している<ref>『オーストリア皇太子の日本日記』フランツ・フェルディナント、(講談社学術文庫、2005年9月)p171</ref>。また、[[香淳皇后]]が[[皇太子妃]]だった頃の輔導役も果たした。社会事業にも積極的で、母の[[岩倉久子]]公爵夫人の跡を追い[[愛国婦人会]]、[[大日本婦人衛生会]]の総裁を務めた。
 
寡妃となった後も皇族女子として活躍したが、[[1947年]](昭和22年)10月14日、皇室典範第14条の規定により、皇族の身分を離れ、東伏見周子となった。