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== 沿革 ==
[[Image:Couches in China Railway Museum.jpg|thumb|right|北京の[[中国鉄道博物館]]に展示されている展望車。「あじあ」で使用されたテンイ8形ではなく「大陸」用のテンイネ2形だが、同時代に同じ技術陣によって設計された姉妹車で、デザインや構造に共通点が多い。]]
[[File:Pashina_SL7-757_@_Shenyang_Railway_Museum.jpg|thumb|right|瀋陽の{{仮リンク|瀋陽鉄路陳列館|zh|沈阳铁路陈列馆}}に展示されている勝利7型。「あじあ」で使用されたパシナ形757号機]]
<!--満州国に関する「評価」は別の場所で書くべきことです。ここには書かないでください-->
[[Image:CNR_SL-751.jpg|thumb|right|勝利7型、1984年]]
<!-- [[1932年]](昭和7年)、日本は[[中国大陸]]へ進出する過程で、[[中華民国]]の無策により混乱が続く[[中国東北部]]を安定させるとの名目の下で[[満州国]]成立に「協力」し、首都を内陸部の[[長春]]([[新京]]と改称)に置いた。日本は積極的に満洲に資本を投入し、満洲と日本本土との物流及び人的交流は従前にも増して頻繁になった。[[黄海]]に突出した[[港湾都市]][[大連市|大連]]と、[[首都]]新京との間は[[南満州鉄道]][[満鉄連京線|連京線]]によって結ばれており、[[大連港]]を発着する日本への定期船と連絡していた。 -->
[[1932年]](昭和7年)の[[満州国]]成立当時、[[黄海]]に突出した港湾都市[[大連市|大連]]と、[[首都]]新京との間は[[南満州鉄道]][[満鉄連京線|連京線]]によって結ばれており、[[大連港]]を発着する日本への定期船と連絡していた。
 
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[[1941年]](昭和16年)[[7月]]、[[関東軍特種演習]]のため一時「あじあ」の運転を休止。[[12月]]に運転を再開するが、[[1943年]](昭和18年)[[2月28日]]、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])激化に伴い運転を休止。同年[[4月]]には全線で最高速度を引き下げて輸送力を増強する方向のダイヤ改正が行われ、以後「あじあ」の運転が再開されることは無かった。
 
戦後、一部の客車は[[ソ連対日参戦|満洲国内に侵攻]]してきた[[ソビエト連邦]]に[[接収]]されたものの、[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]の満州撤退後は一部の機関車や客車を[[中華人民共和国]]が引き継ぎ、「パシロ」形は「勝利6型」、「パシナ」形は「勝利7型」に改称され、保管されている。在でも若干数機関車・展望車など勝利7型2両(751、757)同国内に保管または留置一般公開されて現存している<ref>一例として、大連{{cite web |title=“幻の超特急”満道国際旅行社所有「あじあ」号車庫(大連市)にパシナ型機関車 瀋陽の博物館で保存されているとの報道があった。※出典:西日本新聞(2006年10月16日朝刊)</ref><ref> |publisher=[http[フジサンケイビジネスアイ]] |url=https://www.sankeisankeibiz.comjp/photo/storycompliance/news/171016171013/sty1710160004cpd1710132236014-n1.htmlhtm|date=2017-10-13|accessdate=2019-10-20}}</ref><ref>{{cite 〝幻web |title=満鉄の超特急「あじあ号牽引した機関車、一般公開 中国・瀋陽の博物館で保、現]の2両 産経デジタル2017年10月16 |publisher=[[朝新聞]] 14|url=https:47//www.asahi.com/articles/DA3S14022509.html|date=2019-05-20|accessdate=2019-10-20}}</ref>。
 
== 編成・車両 ==