「宝蔵王」の版間の差分

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政変を起こして権力を握った淵蓋蘇文によって王に擁立されたので、王としての実権を持つことはできなかった。在位中には[[天変地異|天災地変]]が頻繁に起こり、淵蓋蘇文の主張によって[[道教]]振興策を実施した。
 
[[唐]]と結んだ[[新羅]]とは敵対関係が続いていたが、[[百済]]とは緊密な関係を維持した([[麗済同盟]])。[[唐の高句麗出兵]]でははじめのうちは善戦し、[[太宗 (唐)|太宗]]が親征した第1次侵攻は撃退した。しかし[[高宗 (唐)|高宗]]の代になって唐が戦略を持久戦に転換すると国力の消耗が著しくなり、その結果として離反や内紛が相次いだ。[[660年]]に百済が唐に滅ぼされ、[[665666年]]の淵蓋蘇文の死後にその三子の後継争いが生じた後、[[668年]]の第3次侵攻で[[平壌市|平壌長安城]]を落とされ、ここに高句麗は滅亡した。宝蔵王は唐に投降して[[長安]]に連行されたが、政治の責任が王になかったとして処刑されることはなく、唐から司平大常伯・員外同正に任命された。
 
==高句麗滅亡後==