削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
17行目:
| 藩 = [[肥後国|肥後]][[宇土藩]]主→肥後[[熊本藩]]主
| 氏族 = [[細川氏]]
| 父母 = 父:[[細川立之]]、母:[[土井利厚]]娘・栄昌院<br />養父:''[[細川斉樹]]'' (立之の弟)
| 兄弟 = '''斉護(立政)'''、[[細川行芬|之寿(行芬]]、娘([[渡辺潔綱]]正室、女子
| 妻 = 正室:'''[[浅野斉賢]]・益'''<br>比企氏、田鶴、青木甚之助娘、長
| 子 = 養子:'''''行芬''''' (実弟、宇土藩継嗣)<br />実子:[[細川慶前|護前(慶前]](長男)、'''[[細川韶邦|護順(韶邦]]'''(次男)、[[細川護久|護久]](三男、韶邦養嗣子)、[[津軽承昭|護明(津軽承昭)]](四男[[津軽順承]]養子)、[[細川友之丞|友之丞]](五男、早世)<br>[[長岡護美]](六男、熊本藩執政)、勇姫(三女、越前ら<br>'''''[[松平春嶽細川行芬|松平慶永行芬]]正室)ほか'''''
| 特記事項 =
}}
32行目:
 
当時、熊本藩では代々の藩主による出費などで、すでに80万両という膨大な借金を抱え、財政は破綻寸前となっていた。しかもこのような中で、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[イギリス]]などの日本接近もあって、幕府から[[天草郡|天草地方]]や[[相模湾]]警備を命じられ、その出費で財政はさらに悪化した。このため、斉護は財政再建のために藩政改革に取りかかるが、その方針をめぐって[[横井小楠]]・[[長岡是容]]ら改革派と[[松井佐渡]](=10代当主[[松井章之]](てるゆき))ら保守派が対立し、かえって藩内が二分された。このような混乱と苦悩の中で万延元年(1860年)、斉護は57歳で死去した。長男の慶前は早世していたため、跡は次男の護順改め慶順(のちの韶邦)が継いだ。
 
== 系譜 ==
*父:[[細川立之]](1784-1818)
*母:富 - 栄昌院、[[土井利厚]]の娘
*養父:[[細川斉樹]](1797-1826)
*正室:益 - [[浅野斉賢]]の娘
*室:比企氏
**次男:[[細川韶邦]](1835-1876)
*室:田鶴 - 興願院
**三男:[[細川護久]](1839-1893) - [[細川韶邦]]の養嗣子
*室:青木甚之助の娘
**四男:[[津軽承昭|津軽承昭]](1840-1916)- [[津軽順承]]の養子
*室:長 - 飯銅氏
**六男:[[長岡護美]](1842-1906) - [[喜連川煕氏]]の養子、熊本藩執政
*生母不明の子女
**長男:[[細川慶前]](1825-1848)
**五男:友之丞 - 早世
**三女:勇姫(1834-1887) - [[松平春嶽|松平慶永]]正室
*養子
**男子:[[細川行芬]](1811-1876) - [[細川立之]]の次男
 
== 出典 ==
38 ⟶ 58行目:
{{宇土藩主|8代|1818年 - 1826年}}
{{熊本藩主|細川氏|10代|1826年 - 1860年}}
{{細川氏|宇土細川家8代、肥後細川家||12代}}
{{細川護熙の系譜}}
 
{{デフォルトソートDEFAULTSORT:ほそかわ なりもり}}
[[Category:肥後細川氏|なりもり]]
[[Category:宇土細川家|なりもり]]
[[Category:熊本藩主|なりもり]]
[[Category:宇土藩主|なりもり]]
[[Category:幕末の大名]]
[[Category:幕末熊本藩の人物]]
[[Category:肥後細川氏|なりもり]]
[[Category:宇土細川家|なりもり]]
[[Category:日本の神 (人物神 江戸時代大名)]]
[[Category:1804年生]]