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九州行脚をおこなったのか否か、いずれにせよ前述の通り『袋中上人絵詞伝』では西海、すなわち九州で便船を求め渡海したとしている。袋中が出航した港についての記録はないが、『琉球神道記 巻末 袋中良定上人伝』では『寤寐集』にある平戸の法音寺に立ち寄った記事によって<ref name="shintouki4">『琉球神道記』1943年10月。巻末の袋中良定上人伝「四、琉球時代」より。</ref>、『檀王法林寺 袋中上人 - 琉球と京都の架け橋 -』では『琉球神道記』の稿本奥書にある平戸から帰国したと言う記事によって<ref name="dannou_ryukyu2">『檀王法林寺 袋中上人 - 琉球と京都の架け橋 -』2011年11月。「袋中上人と琉球 二 九州出航」より。</ref>、出航したのは[[平戸島|平戸]](現在の[[長崎県]][[平戸市]])ではないかと推測している。
 
しかし、袋中が渡明を企図した頃の国際情勢は、日本人が明に渡るのを容易に許すものではなった。『檀王法林寺 袋中上人 - 琉球と京都の架け橋 -』によれば、[[豊臣秀吉]]による[[文禄]]元年([[1592年]])と慶長2年([[1597年]])の2度に渡る[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]のため、[[李氏朝鮮]]とそれを支援する明との関係は断絶しており、戦後の講和も遅々として進んでいなかった。また、日本に寄港する中韓明と朝鮮以外の外国船も日本人を恐れて乗船を拒否していたのだと言う<ref name="dannou_ryukyu2" />。このため袋中は、明へ直接渡るのではなく、琉球へ渡って、そこで船を求めることにする。
 
袋中が琉球に至った経路について、『袋中上人絵詞伝』には「折節便船ありければ先ず琉球に渡り給ひぬ。呂宋南蛮の商船を賴むといへども彼国の人は日本を東夷なりとをそれてかたく拒みて乗せす。」とあり、琉球までは渡ることができたが、その先の便船は見つけられなかったことを伝えている。これに対し、『飯岡西方寺開山記』には「此年入唐ノ望有テ、郷里ヲ去テ西海道ニ赴キ、商沽便船ヲ伺、漢土ノ著岸ヲ志ザスト雖ドモ、彼国東夷ヲ畏テ、堅ク旅船ヲ入レズ、故呂宋南蛮遠流ヲ凌ギ、風ニ依テ琉球至ルニ、」とあり、一旦は[[ルソン島]]辺りまで南下したが、その後、琉球まで戻ったと伝えている。『寤寐集』にも「魯宋ニテ着岸ノ時、其国ヨリ海中ノ船ヲ責ト云、又海中ヨリ国ヲ攻ト云テ大ニ乱ス、」と、ルソン着岸時の混乱の様子が書かれており、『琉球神道記 巻末 袋中良定上人伝』<ref name="shintouki9">『琉球神道記』1943年10月。巻末の袋中良定上人伝「九、上人の著書」より。</ref>および『檀王法林寺 袋中上人 - 琉球と京都の架け橋 -』<ref name="dannou_ryukyu3">『檀王法林寺 袋中上人 - 琉球と京都の架け橋 -』2011年11月。「袋中上人と琉球 三 琉球での袋中上人」より。</ref>の両書とも、傍証は無いが袋中はルソンまで渡ったのではないかと考察している。