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|名前 = 朝潮 太郎
|画像 =[[画像:Asashio III 1956 Scan10011.jpg|250px]]
|説明 = 1956年3月場所に優勝し、祝杯を挙げる<br><small>(『相撲』1956年5月号より)</small>
|四股名 = 米川 文敏→朝汐 太郎→朝潮 太郎
|本名 = 米川 文敏
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|作成日時 = [[2013年]][[9月19日]]
}}
'''朝潮 太郎'''(あさしお たろう、[[1929年]](昭和4年)[[11月13日]] - [[1988年]](昭和63年)[[10月23日]])は、本名'''米川 文敏'''(よねかわ ふみとし)、[[鹿児島県]][[徳之島]]出身(出生地は[[兵庫県]]武庫郡、現在の[[神戸市]])で、[[高砂部屋]]に所属していた大相撲第46代[[横綱]]。現役時代の体格は身長189cm、体重145kg。得意技は左四つ、寄り<ref name="takasagoo17"/>。
 
== 来歴・人物 ==
[[1948年]](昭和23年)10月場所、本名の'''米川'''で[[初土俵]]。当時[[奄美諸島|奄美]]は米軍の占領下にあったので[[兵庫県]]の親戚、大沢徳城を頼って貨物船に忍び込み密航、奄美が返還されるまで兵庫県([[神戸市|神戸]])出身と[[番付]]に書かれていた<ref name="takasagoo2829">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p28-29</ref>。[[力士]]となってから故郷奄美の返還運動にも参加し奄美返還後は鹿児島県出身と書かれた。濃い胸毛と太い眉毛で人気を博し、当時は"一に朝潮、二に長嶋、三に三島由紀夫"と胸毛の濃い著名人を謳うフレーズが聞かれた<ref name="100retsu">北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)62ページから63ページ</ref>。[[東宝]]映画『[[日本誕生]]』に[[手力男命]]の役で出演したり、[[週刊少年マガジン]]創刊号の表紙も飾った<ref name="100retsu"/>。大阪場所で強く、「'''大阪太郎'''」と呼ばれた横綱だった。優勝は5回あるがそのうち4回が大阪(あと1回は九州)、横綱昇進を決めたのも大阪だった<ref name="takasagoo17"/>。左ハズ、右上手で挟み付けるように攻めた時の強さは特筆すべきものがあり、期待通りの出世を遂げた<ref name="takasagoo17">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p16</ref>。
 
入門に際して前田山は「6尺1寸、29貫の大男がいるので、指導する気があったら君が連れに来い」と米川を紹介されたといい、入門時には逸材が入ったと記者クラブが大騒ぎであったと伝わるが、半ズボンに進駐軍のセーターといういでたちをしていたため初めて米川を見た前田山は米川がそれほど大きくないと錯覚したという。しかし当時としては異例の巨体であったため、相撲界隈では「100年に1度の巨体」と評された<ref name="yonewaka">『大相撲ジャーナル』2017年12月号p43</ref>。当時立派な服など持っていなかった米川に4代高砂は、色は焼けているが比較的立派な服を譲り、密入国者であり配給を受けられない米川にヤミ米を買って食べさせた。しかし物資に恵まれない時代に特別扱いを受けていた米川を僻む者も少なくなかったという。当時の奄美大島の力士に共通していた弱点として下半身が脆く、前田山は[[志村正順]]との対談で「大体、私のほうへは奄美からたくさん青年がきてますが、向こうの者は全部腰から下がいけないんですね。食べ物の関係かなんか知りませんが」「結局足の訓練が足らない。歩かないんだ。まあ毒ヘビのハブがおるからと思うて、歩かないのかもしれないけど(笑)」と呟いていた。そのため、前田山は多い日では4時間も米川に四股を踏ませ、東冨士と稽古を行わせた。前田山が現役であったころは自ら胸を出した<ref name="takasagoo5255"/>。
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[[1951年]](昭和26年)1月場所、年6場所制実施([[1958年]])以前では[[羽黒山政司|羽黒山]]に並ぶ、序ノ口から所要7場所の最速で[[新入幕]]を果たす<ref name="takasagoo2829"/>。[[1952年]](昭和27年)9月場所は4日目に[[羽黒山政司|羽黒山]]、9日目に[[千代の山雅信|千代の山]]を初顔で破り、10勝5敗と二桁勝利を挙げて初の殊勲賞を受賞した。翌[[1953年]](昭和28年)1月場所で小結を通り越して新三役([[関脇]])に昇進して11勝4敗の好成績を挙げ、2回目の殊勲賞を受賞した。入門当初から世話になり積極的に稽古をつけてくれた[[東富士欽壹|東富士]]の引退により1度は低迷して[[前頭|平幕]]に下がるが[[1956年]](昭和31年)3月場所[[関脇]]で12勝3敗の成績で[[大関]]・[[若乃花幹士 (初代)|若ノ花]]、平幕の[[前頭]]15枚目・[[若羽黒朋明|若羽黒]]との[[優勝決定戦 (相撲)|決定戦]]に進出。下馬評は当然、大関の若ノ花有利だったがこれに勝って初優勝を果たした<ref name="takasagoo17"/>。その優勝決定巴戦の取組では左四つに組みとめた朝潮が盤石の形となり、最後はうっちゃりに来る若ノ花をがぶって寄り倒し。続く格下の若羽黒も一蹴した<ref name="takasagoo41">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p41</ref>。これは昭和生まれの力士の初めての幕内優勝でもあった。
 
翌5月場所に大関昇進を賭けたが8勝7敗に終わり失敗に終わった。しかし[[1957年]](昭和32年)3月場所は初日から12連勝し、史上初の横綱大関総なめ(同じ[[高砂一門]]の[[松登晟郎|松登]]と休場した[[吉葉山潤之輔|吉葉山]]を除く)の快挙を成し遂げ、13勝2敗で2回目の優勝を果たし、場所後大関に昇進した。[[1958年]](昭和33年)3月場所も13勝2敗の成績で関脇・[[琴ヶ濵貞雄|琴ヶ濵]]との決定戦を制して優勝し大阪場所3連覇、大阪太郎の名を定着させた<ref name="100retsu"/>。同年11月場所は14勝1敗の成績で4回目の優勝。この場所千秋楽の若乃花との相星対決では朝潮が突っ張りから素早く左四つに組み止めて先に上手を引き、有利な体勢から再三寄り立て、若乃花が残すと朝潮は右上手投げから頭を付け、左をハズにあてて必死に寄り切った<ref name="yonewaka"/>。[[1959年]](昭和34年)3月場所は優勝こそ逃したが、13勝2敗の好成績で1月場所の11勝4敗という成績は問題視されたが横綱になった<ref name="takasagoo17"/>。当時、胸毛のある力士は横綱になれない<ref>稽古を熱心に行えば毛という毛が擦り切れるのであって毛が残っているということは稽古が足りないという意味でこういったジンクスが成り立った。</ref>という[[ジンクス]]を見事破った<ref name="100retsu"/>。昇進時の口上は「'''お受けします。横綱の名に恥じぬよう一生懸命頑張ります'''」であった<ref>Sports Graphic Number (文藝春秋)2019年2月28日号 p62</ref>。横綱土俵入りでは4代高砂から「君は上手にしようと思わんでいい」と指導されたこともあって、少なくとも横綱初期においてはゆっくりとしたものに仕上がった。
 
しかし横綱昇進以後は脊椎分離症などに悩まされ<ref name="takasagoo2829"/>強弱の差が激しく、強い朝潮と弱い朝潮の2人がいるといわれ<ref name="100retsu"/>、ある時朝潮にいい所なく負けた[[出羽錦忠雄|出羽錦]]が「今日は強い方の朝潮と当たっちゃった」と言っていた。また休場が多いため「や印の横綱」とまで言われた<ref name="100retsu"/>。横綱在位3場所目で2回以上の休場という記録は昭和以降4人目<ref>『大相撲中継』2017年9月16日号 p78</ref>。横綱になっても足腰の脆さは残っていた<ref name="takasagoo5255"/>。その後はしばらく優勝することがなかったが、[[1961年]](昭和36年)3月場所は4日目に栃光に敗れたのを除いて白星を重ね、14日目に大関・[[琴ヶ濵貞雄|琴ヶ濵]]を押し倒して13勝1敗、14日目に5回目の優勝を決めた。千秋楽は大関・[[柏戸剛|柏戸]]に上手投げで敗れたものの13勝2敗で再起を果たした。この場所は「弱い朝潮は生まれたばかりの息子をあやすために東京に残って、強い朝潮1人だけが大阪に来た」と言われた。5月場所は初日から3連敗で休場、7月場所は初日から7連勝し、千秋楽に12勝2敗同士で大関・大鵬との[[相星]]決戦に臨んだが敗れて12勝3敗。千秋楽の取組では、大鵬が右から張って左差し、朝潮は右上手を取って左から攻めたが、大鵬は右上手を取ると、上手投げで朝潮の体を崩し、左ハズから体を崩して大鵬が勝利<ref>『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p46</ref>。この場所が最後の光だった<ref name="100retsu"/>。結局素質は戦後最高とまで言われながら連覇も全勝もなく一時代を築けなかった。体を前に小さく屈めて対する鶏追いの型で小兵力士には強く、[[栃錦清隆|栃錦]]には一時期[[不戦勝 (相撲)|不戦勝]]も含めて6連勝と健闘し、通算対戦成績も13勝16敗、若乃花はたびたび彼に苦杯を嘗め、通算対戦も16勝17敗(上述の決定戦も含めれば17勝17敗)と互角に闘った。また、大関・[[若羽黒朋明|若羽黒]]には21勝3敗と圧倒的に強く、大関・[[琴ヶ濱貞雄|琴ヶ濱]]にも18勝11敗と勝ち越しており、一時期は7連勝したこともあった。その一方で関脇・[[鶴ヶ嶺昭男|鶴ヶ嶺]]には10勝8敗と苦手にしていた。
 
[[1962年]](昭和37年)1月場所、番付に名を残しながら同場所前に現役引退を表明。横綱在位数は[[1961年]](昭和36年)までの16場所だった(番付上は17場所)。本来は[[振分]]親方となるはずだったが親友である松登の引退の際に[[年寄名跡|名跡]]を貸していたため当時の[[年寄名跡#一代年寄|一代年寄]]制度を利用して朝潮のまま親方になる。現役力士から名跡を借りている親方は、本来は名跡の持主が引退すれば返さなければいけないが、松登は年寄名跡がなくこのままでは廃業かと心配していた。この時振分(松登)のもとを訪ね自身は横綱の特権が使えることからそのまま貸し続けることを快諾したという。同年[[大山 (相撲)|大山]]([[髙登渉|髙登]])が亡くなり振分親方が[[大山部屋]]を継承すると自身は振分を襲名。一時期独立して[[振分部屋]]を経営したが後に部屋を閉じて高砂部屋に戻った。
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== 主な成績 ==
[[File:Asashio III and Maedayama (Takasago) 1956 Scan10012.jpg|thumb|200px|1956年3月場所優勝で祝杯]]
[[File:Asashio Taro the 3rd.JPG|thumb|175px|1953年]]
* 通算成績:501勝270敗101休 勝率.650
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{{Basho|KYUJO|rank=hy|tozai=e|<ref>脊椎分離症・坐骨神経痛により初日から全休</ref>}}
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{{Sumo record year end}}
{{Sumo record year start|1960}}
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== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 外部リンク ==
* [http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/yomu/001/059.html 廻し姿で優勝パレードをした「大阪太郎」] 大相撲コラム集(大相撲あんなこと・こんなこと) - [[goo]] 大相撲
 
== 関連項目 ==
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* [[富士櫻栄守]]
* [[南海龍太郎]]
 
== 外部リンク ==
* [http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/yomu/001/059.html 廻し姿で優勝パレードをした「大阪太郎」] 大相撲コラム集(大相撲あんなこと・こんなこと) - [[goo]] 大相撲
*{{sumodb|3918|朝潮 太郎}}
 
<!--{{右|*柏戸は[[大鵬幸喜|大鵬]]と同時昇進}}-->