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天皇には正室以外にも複数の側室がいたほか、正室すら二名をもつことができた([[皇后]]と[[中宮]]、[[一条天皇]]が二后を並立した)。天皇の配偶者は、当初は[[出自]]に応じてそれぞれの称号が決まっていたが、後代になると寵愛の度合いによってこれが曖昧になった。
 
明治20年代半ば(1890年代後半)、[[皇太子]][[大正天皇|嘉仁親王]](後の大正天皇)の妃を決めるにあたり、キリスト教概念による[[一夫一妻制]]の西欧列強に一等国として認められるため、宮中も一夫一妻制を推進する必要に迫られていた<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.137</ref>。そこで、健康な[[貞明皇后#九条節子]]が皇太子妃となり、夫妻には裕仁親王(後の[[昭和天皇]])ら、4人の男児が誕生した。[[大正天皇]]は自身が側室[[柳原愛子]]の子であることを知って衝撃を受け、またその后[[貞明皇后]]も側室である生母[[野間幾子]]の不遇を見て育ったことから、[[一夫一妻制]]を推進した<ref>[[#小田部 2001|小田部 2001]] p.146-147</ref>。続く、[[昭和天皇]]は、20~21歳にかけて[[皇太子裕仁親王の欧州訪問|欧州訪問]]を行った際に見たイギリスの王侯貴族の簡素な生活に影響を受け<ref>[[#小田部 2001|小田部 2001]] p.148</ref>、主体的な意思を持って側室制度を拒否した<ref>[[#小田部 2001|小田部 2001]] p.147</ref>。
 
続く、[[昭和天皇]]は、20~21歳にかけて[[皇太子裕仁親王の欧州訪問|欧州訪問]]を行った際に見たイギリスの王侯貴族の簡素な生活に影響を受け<ref>[[#小田部 2001|小田部 2001]] p.148</ref>、主体的な意思を持って側室制度を拒否した<ref>[[#小田部 2001|小田部 2001]] p.147</ref>。
 
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