「寛永寺」の版間の差分

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江戸時代後期、最盛期の寛永寺は寺域30万5千余坪、寺領11,790石を有し、[[塔頭|子院]]は36か院に及んだ(現存するのは19か院)。現在の[[上野恩賜公園|上野公園]]のほぼ全域が寛永寺の旧境内である。最盛期には、今の上野公園の2倍の面積の寺地を有していたというから、その規模の大きさが想像できる。たとえば、現在の[[東京国立博物館]]の敷地は寛永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水広場は、根本中堂のあったところである。
 
江戸時代には[[飛鳥山]]と並ぶ桜の名所として知られており庶民の行楽地であった<ref name="TNM2011" />。
上野の山は、幕末の慶応4年(1868年)、[[彰義隊]]の戦([[上野戦争]])の戦場となったことから、根本中堂をはじめ、主要な堂宇はこの時焼失し、壊滅的打撃を受けた。明治維新後、境内地は没収され、輪王寺宮は還俗、明治6年(1873年)には旧境内地が公園用地に指定されるなどして寺は廃止状態に追い込まれるが、明治8年(1875年)に再発足。もと子院の1つの大慈院があった場所に川越の[[喜多院]](天海が住していた寺)の本地堂を移築して本堂(中堂)とし、ようやく復興したものの、寺の規模は大幅に縮小した。
 
しかし、上野の山は、幕末の慶応4年(1868年)、[[彰義隊]]の戦([[上野戦争]])の戦場となったことから、根本中堂をはじめ主要な堂宇はこの時焼失。残された建物は五重塔壊滅的打撃を受清水堂、大仏殿などだで大半の堂宇が失われ<ref name="TNM2011" />。明治維新後、境内地は没収され、輪王寺宮は還俗、明治6年(1873年)には旧境内地が公園用地に指定されるなどして寺は廃止状態に追い込まれるが、明治8年(1875年)に再発足。江戸時代の境内地だった場所は上野公園や上野駅の用地なり大きく変貌していたが、子院の1つの大慈院があった場所に川越の[[喜多院]](天海が住していた寺)の本地堂を移築して本堂(中堂)とし、ようやく復興したもの、寺の規模は大幅縮小しつい<ref name="TNM2011" />
 
[[第二次世界大戦]]の空襲では、当時残っていた[[徳川家霊廟]]の建物の大部分が焼失した。上野戦争で焼け残り、[[第二次世界大戦]]の戦災もまぬがれたいくつかの古建築は、上野公園内の各所に点在している。