「松前勘解由」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
リンク切れ |
||
1行目:
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 松前
| 画像 = 松前勘解由と従者像.JPG
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = 松前勘解由と従者
| 時代 = [[
| 生誕 = 不
| 死没 = [[慶応]]4年[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]([[1868年]]9月18日)
| 改名 = 崇效
| 別名 =
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 = [[北海道]][[松前町
| 官位 =
| 幕府 =
| 主君 = [[松前昌広]]→[[松前崇広|崇広]]→[[松前徳広|徳広]]
| 藩 = [[松前藩]]家老
| 氏族 = [[蠣崎氏]](将監流)→[[蠣崎氏|松前氏]](斎藤流)
| 父母 =
| 兄弟 = [[蠣崎広興|広興]]、
| 妻 = [[松前広重
| 子 =
| 特記事項 =
}}
'''松前 勘解由/崇效'''(まつまえ かげゆ
[[マシュー・ペリー]]の[[函館市|箱館]]来航時に松前藩の代表として応接、名を高める。その後、筆頭家老として、[[外様大名]]ながら[[寺社奉行]]および[[老中]]を勤めた主君・[[松前崇広]]を支えるが、[[大政奉還]]後、勘解由の藩運営に不満を抱く尊王派の正義隊によるクーデターで失脚し自刃した。▼
▲[[マシュー・ペリー]]の[[箱館]]来航時に松前藩の代表として応接、名を高める。その後、筆頭家老として、[[外様大名]]ながら[[寺社奉行]]および[[老中]]を勤めた主君・[[松前崇広]]を支えるが、[[大政奉還]]後、勘解由の藩運営に不満を抱く尊王派の正義隊によるクーデターで失脚し自刃した。
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
[[ファイル:Matsue daimyo c1850s.jpg|right|thumb|[[松前勘解由]]と従者像。元の写真(1854年、ペリーの箱館来航時に撮影)は日本最古の銀板写真の一つで重要文化財。]]
蠣崎広年(波響)の長男で家老を勤めた、将監流蠣崎家・[[蠣崎広伴]](波鶩)の次男として誕生
[[天保]]14年([[1843年]])、前年に内蔵が藩主・昌広の怒りを買い蟄居処分を受けたため、家督を継ぐ。[[嘉永]]2年([[1849年]])、松前崇広の藩主就任に伴い内蔵が筆頭家老に復帰したのに併せ、奥用人に登用される。内蔵が死去した翌年の嘉永6年([[1853年]])、家老格に昇進する<ref name=matsumae/>。
42行目:
嘉永7年4月([[1854年]]5月)、[[日米和親条約]]を締結したペリーが箱館に来航した際、主席応接使を勤める。ペリー艦隊の主な目的は[[函館港|箱館港]]の視察であったが、箱館入港後、アメリカ側は箱館港に関する取り決めを松前藩に求めてきた。ところが、松前藩は幕府から諸事穏便に済ませよと命じられていただけで、ペリーの目的を知らされていなかった<ref>{{Cite web |url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-00/shishi_04-00-01-02-01.htm |title=『函館市史』通説編第2巻 松前藩への幕府の達 |publisher=[[函館市]] |accessdate=2014-08-07 }}</ref>。4月23日にようやく箱館開港を伝える飛脚が届いたものの、日米和親条約については伝えられておらず、アメリカ側から条文を示されて初めて具体的内容を知る始末であった<ref>{{Cite web |url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-00/shishi_04-00-01-02-08.htm |title=『函館市史』通説編第2巻 ペリーから知らされた条約 |publisher=[[函館市]] |accessdate=2014-08-07 }}</ref>。
4月23日(1854年5月19日)、勘解由は[[ミシシッピ (蒸気フリゲート)|ミシシッピ号]]を訪問、ペリーと会談。ペリーは松前藩主が出席しないことに関し不満を示したが、勘解由は、藩主が松前を離れることは不可能なため自分が全権委任を受けていると答えると
その3日後の4月26日(1854年5月22日)、ペリーが箱館に上陸して再度の会談が行われた。遊歩区域<ref>日米和親条約第5条で下田の遊歩区域は7里以内、箱館は別途定めることとなっていた。</ref>について議論になったが、これも勘解由は権限がないとして遊歩区域の境界設定を拒否した<ref>{{Cite web |url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-05/shishi_03-05-01-02-10.htm |title=『函館市史』通説編第1巻 ペリー提督上陸会談 |publisher=函館市 |accessdate=2014-08-07 }}</ref>。ペリーの要求に苦慮した松前藩は、蝦夷地視察のため津軽・[[三厩村|三厩]]に来ていた[[目付]]・[[堀利煕]]、[[勘定吟味役]]・[[村垣範正]]に事情を報告した。堀らは部下を箱館に派遣し、アメリカ側に要求は不当であり、箱館港についての取り決めは後日[[下田市|下田]]で協議したいと回答。ペリーも了承し、5月8日(1854年6月3日)、箱館を出港した<ref>{{Cite web |url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-05/shishi_03-05-01-02-11~12.htm |title=『函館市史』通説編第1巻 幕吏の来箱 |publisher=函館市 |accessdate=2014-08-07 }}</ref>。
箱館における勘解由の対応を、アメリカ側は以下の様に批判した<ref>{{Cite web |url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-05/shishi_03-05-01-02-16~19.htm |title=『函館市史』通説編第1巻 松前藩役人に対する批判 |publisher=函館市 |accessdate=2014-08-06 }}</ref>。
61行目:
慶応4年(1868年)閏4月、家老に再登用される。大政奉還後の松前藩は、[[箱館府]]に守備兵を送り、敦千代を藩主名代として上洛させ、秋田の奥羽鎮撫副総督・[[澤為量]]に軍資金を提供と新政府に従う姿勢を見せる一方で、[[奥羽越列藩同盟]]にも家老・[[下国弾正]]を派遣する日和見政策を取ったが、[[鈴木織太郎]]・[[下国東七郎]]ら少壮藩士を中心とする尊王派は不満を高め、正義(しょうぎ)隊を結成した。
正義隊は密かに箱館府知事・[[清水谷公考]]と接触し協力を取り付け、7月28日(1868年9月14日)にクーデターを決行。正義隊は家老・[[下国崇教|下国安芸]]を強要して藩主・徳広に謁見し、勘解由ら佐幕派の一掃と勤王への転向を建白、病気のため判断力が低下していた徳広はこれを採り上げる。建白書が採用されたことを知った勘解由は急遽登城しようとするが果たせず、集まった1千名もの藩士と
墓は松前氏の菩提寺である、[[北海道]][[松前町
== 系譜 ==
*父:[[蠣崎広伴]]
*母:不詳
*養父:[[松前広重]]
*養祖父:[[松前広純]]
*室:[[松前広重]]長女
*生母不明の子女
**四男:敏四郎 - [[蠣崎継晃]]の養子
*養子
**男子:[[松前冨之助]]
== 脚注 ==
80 ⟶ 91行目:
* [[日本写真史]]
[[Category:松前氏|かけゆ]]▼
▲{{デフォルトソート:まつまえかけゆ}}
[[Category:幕末松前藩の人物]]
▲[[Category:松前氏|かけゆ]]
▲[[Category:蠣崎氏|かけゆ]]
[[Category:自殺した人物]]
[[Category:幕末の日米関係]]
|