「地下鉄道 (秘密結社)」の版間の差分

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自由黒人で商人だった[[:en:William Still|ウィリアム・スティル]]は「地下鉄道の父」と呼ばれ、月に60人の頻度で、総計で何百人もの奴隷が逃亡するのを助けた。彼はペンシルベニア州[[フィラデルフィア]]の自宅に奴隷をかくまうこともあった。スティルは、助けた元奴隷たちの伝記などをこまめに記録しており、亡命後の奴隷たちとも文通を続けた。さらに、その元奴隷たちの家族への手紙を届け、彼らとその家族との間の音信を守った。スティルはこの経験をもとに『地下鉄道』という本を南北戦争後の[[1872年]]に出版した。
 
地下鉄道組織内のメッセージのやりとりには隠語が使われ、関係者以外は理解できないようになっていた。例えば、「2時に、大きなハム4つと小さなハム2つ、『経由で』送りました」という伝言は、「大人4人と子供2人を[[ハリスバーグ (ペンシルベニア州)|ハリスバーグ]]から[[フィラデルフィア]]に送った」を意味するが、「経由で」を加えることによって、普通に直通列車で移動したのではなく、遠回りの「[[レディング (ペンシルベニア州)|レディング]]経由で」移動したことを意味していたのだ。だから、この伝言を入手した当局は、奴隷が亡命する前に捕まえようと通常の鉄道の駅で待ち伏せしたが、スティルは別の場所で奴隷たちと落ち合うことができ、後に彼らをカナダに無事に亡命させた。
 
[[1820年代]]に地下鉄道が発達する以前の[[1600年代]]にはすでに奴隷たちが、補助を得ても得なくても、主人のもとから逃げ出していた。[[メリーランド州]]と[[オハイオ州]]で運営されていたアメリカ初の商業用鉄道東西[[ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道]]は、偶然にも北へ向かう地下鉄道と交差していた。
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::(以上、黒人たちの伝統的な言い伝えから)
 
[[Fileファイル:National underground railroad freedom center main entrance 2006.jpg|right|thumb|180px|シンシナティにある国立地下鉄道自由センター。地下鉄道の活動に関する史料を展示している。]]
 
ただ、研究者の間では、この歌は奴隷制時代に遡るものではなく、南北戦争後に作られた歌だとする考えが支配的である。
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==旅の様子==
逃亡中、本当の鉄道を利用した奴隷もまれにいたが、通常は歩いたり荷車で移動した。奴隷たちを捕まえようとする追っ手を撒くために、うねりくねった経路をたどった。逃亡者の大多数が、40歳以下の[[農民]]の男性だったと言われている。逃亡の旅道は、女性や子供には険しく危険すぎたのだ。ただし、通常は、地下鉄道を通して逃亡し自由な生活を確立した奴隷たちは、自分たちの妻や子供を主人から買い取り、その後一緒に暮らしたのだった。これが可能だったため、実際、秘密の逃亡によって亡命した奴隷たちに加えて、逃亡はしなかったが奴隷の身から解放され、地下鉄道を運営していた勇気ある人々を感謝した黒人たちは、相当な数がいた。
 
地下鉄道の詳細な情報が公的機関などに流出してはならないため、道筋や隠れ家の場所などの情報は全て口頭で伝えられた。南部の新聞には、逃亡奴隷についての情報が頻繁に掲載され、捕まえた者には主人から賞金が出された。このような賞金稼ぎを職業とした奴隷捕獲人は、遠くはカナダまで奴隷を追い、捕まえようとした。働き盛りの屈強な黒人は、奴隷の主人たちにとって投資した動産であり労働力だった。また奴隷ではない「自由黒人」たちでさえ、拉致され奴隷として売られることもあったのだ。その黒人の自由を署名入りで正式に公証した個人の「自由証明書」でさえ、簡単に破り捨てられ、完全な自由を保障するとは限らなかったのだ
 
==民間伝承==
[[1980年代]]以後、[[キルト]]のデザインが暗号の役割を果たし、逃亡中の奴隷たちに道のりや隠れ蓑の方向を合図していたという説が提示されている。民間で語り継がれたこうした史話をもとに書かれた『公然と隠されて:キルトと地下鉄道の秘話』は[[1999年]]に出版され話題を呼んだが、現在、このような伝承の歴史的な裏づけは乏しいとされており、キルトに込められたメッセージが実際に地下鉄道の活動に寄与したかは、キルティングの歴史家を含め、多くの歴史家の間では極めて疑わしいとされている。
 
ただ、それとは別に、伝統的な[[黒人霊歌]]には暗号的な役割を果たしえた歌詞が含まれていたという見解は、現在はアメリカの「黒人学(Black Studies)」の定説になっている。「そおっと行け(Steal Away)」や「水の中を歩け(Wade in the Water)」などがその典型である。こうした霊歌は確かに旧約聖書のエピソードやイエスキリストを題材にした信仰の歌に違いなく、一見、他界を望みみる彼岸的な心情の表れであった。だが同時に、同じ歌詞が仲間内では自由の願望ないし逃亡の決行を合図していた場合もあり、霊歌は優れた二重性を有したコミュニケーション手段であったことは間違いない。「ヨルダン川(River Jordan)」がこの世の生から死後の天国への境を意味すると同時に、オハイオ川の言い換えでもあり、「約束の地、カナン(the Promised Land, Canaan)」が北部自由州やカナダ、あるいはアフリカを暗示していないとも限らないのである。奴隷たちの精神構造に痕跡を残していたアフリカ的な世界観では、もともと「聖」と「俗」の間には断絶がなかったことを考え合わせると、このような二重性は当然のことであって、黒人霊歌を単なるあの世的な宗教歌の範疇に閉じ込めることは不適切といえよう
 
==法的・政治的見解==
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少なくとも20,000人あまりの奴隷たちが地下鉄道を通じてカナダに亡命したと推測されている。これは、カナダの社会に多大な影響を与えた。[[アッパー・カナダ]]([[1841年]]からはカナダ・ウエスト、現在の南オンタリオ)に亡命した奴隷の数が最も多く、黒人カナダ人の自治体がそこで数多く発達した。[[トロント]]、[[ナイアガラフォールズ (オンタリオ州)|ナイアガラフォールズ]]、そして[[ウィンザー (オンタリオ州)|ウィンザー]]の3カ所を結ぶ三角形の中に、そのような自治体のほとんどが存在した。特にトロントには1,000人もの奴隷たちが住み着き、また、[[チャタム・ケント|ケント郡]]や[[エセックス郡 (オンタリオ州)|エセックス郡]]には、元奴隷たちの村が数ヶ村設立された。
 
さらに遠くでは、英国領(現在はカナダの一部)に黒人たちの集落が構えられた。その中には、ジェームズ・ダグラス総督が黒人の移住を勧めた[[ノバスコシア州|ノバスコシア]]や[[バンクーバー島]]などの島が挙げられる。ダグラスは、黒人のコミュニティーを設置することによって、その島々をアメリカ合衆国と合併しようとする勢力への防波堤の役目を果たせる、と考えたのだ
 
目的地に着いたときに、失望させられた逃亡者たちも数多くいた。イギリス領では奴隷制は廃止されていたものの、人種差別はありふれていた。到着した土地で仕事を手に入れることも困難だった。しかし、ほとんどの黒人たちはその場所に居続けた。アッパー・カナダに亡命した20,000人中、たった2割の人が米国に帰国した。<ref>Parks Canadaより[http://www.pc.gc.ca/canada/proj/cfc-ugrr/commemoration/pg09_e.asp Number of Underground Railroad refugees arriving in Canada](英語)</ref>