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==概要==
[[バルト海]]東岸に南北に並ぶ[[バルト三国]]の中で
なお、欧州のいずれに分類するかは見解が分かれる。[[国際連合|国連]]では[[北ヨーロッパ|北欧]]に分類されるが<ref>[[国際連合]]統計局の分類より。[[:File:Europe_subregion_map_UN_geoschme.svg|地図]] および次の「Northern Europe」参照 [http://unstats.un.org/unsd/methods/m49/m49regin.htm] 2011年2月17日. 2011年4月2日閲覧。</ref>、[[東ヨーロッパ|東欧]]<ref>[http://www.takushoku-u.ac.jp/laboratory/130720peri_resume.pdf 「東欧の金融・経済」 ~EU、ユーロ動向の最前線~]</ref><ref>[http://www.emeraldinsight.com/doi/abs/10.1016/S1530-3535%2804%2905013-7 FAMILIES IN LITHUANIA : Families in Eastern Europe]</ref><ref>[http://www.yivoencyclopedia.org/article.aspx/Lithuania YIVO | Lithuania]</ref>、もしくは[[中東欧]]<ref>[https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/election_europe/index.html 中東欧・旧ソ連諸国の選挙データ]</ref>に分類される
[[第一次世界大戦]]後の[[1918年]]、[[リトアニア共和国 (1918年-1940年)|リトアニア共和国]]として[[ロシア帝国]]より独立。[[1940年]]に[[ソビエト連邦]]から、翌[[1941年]]に[[ナチス・ドイツ]]からも侵略された。その後、ソ連に再占領されて[[ソビエト連邦構成共和国|ソ連の構成共和国]]の
== 国名 ==
[[リトアニア語]]における正式名称は、'''Lietuvos Respublika'''({{IPA-lt|ˈlʲɛtʊvɔs ɾʲɛsˈpʊbʲlʲɪkɐ|}} リエトゥヴォス・レスプブリカ) 。通称
[[日本語]]の表記は「'''リトアニア共和国'''」で、通称「'''リトアニア'''」<ref>[https://jp.mfa.lt/jp/jp/ 駐日リトアニア共和国大使館](2018年10月19日閲覧)。</ref><ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/lithuania/index.html リトアニア共和国]日本国外務省(2018年10月19日閲覧)。</ref>。一部「リトワニア」「リスアニア」と書かれたこともある<ref>例えば、[[#ティフ編著, 2006|ティフ編著, 2006]].</ref>
ソ連時代の国名は「[[リトアニア・ソビエト社会主義共和国]]」。
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=== 由来 ===
[[ファイル:Lietuvos vardas. The first name of Lithuania in writing 1009.jpg|thumb|right|[[1009年]]の年代記に登場するリトアニアの国名]]
[[1009年]][[3月9日]]付
「[[共和国]]」に相当する
== 歴史 ==
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=== 先史時代 ===
紀元前15000年
=== 中世・近世 ===
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[[1230年代]]に[[ミンダウガス]]がリトアニアの諸部族を統一。その後、[[1253年]][[7月6日]]に[[リトアニアの統治者の一覧|リトアニア王]]となった<ref>{{Cite web | last = Baranauskas | first = Tomas | date = 2001-07-07 | url = http://www.voruta.lt/archyvas/24/1116 | title = Lietuvos karalystei – 750 | publisher = Voruta | language = リトアニア語 | accessdate = 2010-12-13 }}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。[[戴冠式]]が行われた7月6日という日付は現在、リトアニアの[[建国記念日]]に制定されている(''[[#祝祭日|祝祭日]]の節参照'')。[[1263年]]、ミンダウガス王が暗殺され、その後は[[リトアニア大公国]]では[[多神教]]が信仰されていたことから[[ドイツ騎士団]]や[[リヴォニア騎士団]]からの攻撃を受けるようになった([[北方十字軍]])。リトアニアは西方から100年にわたって騎士団からの攻撃を受け続けつつ、他方でリトアニアは東方(かつての[[キエフ公国]]領)へと勢力を伸ばしていった。
[[14世紀]]末までにリトアニア大公国は現在の[[ベラルーシ]]全域、[[ウクライナ]]全域、[[ポーランド]]の一部、[[ロシア]]の一部を領土とする、[[ヨーロッパ]]最大の国家となった<ref>[[#Magocsi, 1996|Magocsi, 1996]]. p. 128.</ref>。東西のはざまに位置していたリトアニア大公国では
[[ファイル:Vytautas the great.jpg|thumb|right|150px|[[ヴィータウタス]][[リトアニアの統治者の一覧|大公]]。彼のもとで[[リトアニア大公国]]は最大版図を達成した。絵画は[[17世紀]]に描かれたもの
[[1385年]]、[[リトアニアの統治者の一覧|リトアニア大公]][[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヨガイラ]]は[[ポーランド君主一覧|ポーランド女王]][[ヤドヴィガ_(ポーランド女王)|ヤドヴィガ]]と結婚し、[[ポーランド君主一覧|ポーランド王]]を兼ねるようになった。これを機にヨガイラは[[キリスト教]]を受容、そして[[ポーランド王国]]とのあいだに[[クレヴォ合同]]が結ばれ、[[ポーランド・リトアニア合同]]が形成される。その後、2度の内戦を経て、[[1392年]]に[[ヴィータウタス]]が[[リトアニアの統治者の一覧|リトアニア大公]]となる。彼の治世のもとでリトアニア大公国は最大版図を達成し、中央集権化も進められた。この当時、リトアニア大公国における公用語は[[リトアニア語]]ではなく、現在の[[ベラルーシ語]]の原型である[[ルーシ語|ルテニア語]]であった。またリトアニア人の大公家を戴いていたものの、その政治的実態はリトアニア
[[1410年]]、ポーランドとリトアニアの協力により、ドイツ騎士団との戦いに勝利を収めた。この戦いは[[中世ヨーロッパ]]で
このとき、リトアニア大公国軍は40部隊から
ヨガイラとヴィータウタスの死後、リトアニアの貴族はポーランドとの合同を解消し、独自にリトアニア大公を選出しようとした。しかし[[15世紀]]末に[[モスクワ大公国]]が力をつけてリトアニアにとって脅威となり、さらに{{仮リンク|モスクワ・リトアニア戦争|en|Muscovite–Lithuanian Wars}}および[[リヴォニア戦争]]が起きる中で、リトアニアはポーランドとの関係を強化せざるを得なかった。
こうして[[1569年]]、ポーランド王国との間に[[ルブリン合同]]が成立し、[[ポーランド・リトアニア共和国]](ジェチポスポリタ)が誕生した。共和国内にあってもリトアニアは独自に軍隊や[[通貨]]、法令などを有していた<ref>[[#Stone, 2001|Stone, 2001]]. p. 63.</ref>。しかし最終的にはリトアニアの政治、言語、文化など
[[1655年]]から[[1661年]]の[[北方戦争]]において、リトアニアの領土や経済はスウェーデン軍によって破壊された。復興前に[[大北方戦争]]([[1700年]] - [[1721年]])が勃発し、リトアニアは再び荒廃した。戦争、疫病、飢餓によって人口の約4割を失うこととなった<ref>"[[#Roads to Independence|Roads to Independence]]."</ref>。周辺諸国、とりわけロシアのリトアニア国内における影響力は増大していった。リトアニア貴族の諸派閥が拒否権を発動し続けたことにより、改革は
現在のリトアニアの領土の大半は、この分割によりロシア帝国領となった。[[1831年]]の[[11月蜂起]]、[[1863年]]の[[1月蜂起]]はいずれも失敗に終わり、[[ツァーリ]]はその後ロシア化政策を強化、[[リトアニア語]]による出版物の発行が禁じられ、文化施設や教育機関が閉鎖を余儀なくされた。リトアニア地域はロシア帝国内では[[北西地域 (ロシア帝国)|北西地方]](クライ)と呼ばれる地方に属することとなった。
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[[1877年]]の[[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]の後、ロシア帝国と[[ドイツ帝国]]の関係が悪化するのに伴い、[[1879年]][[7月7日]]、[[ロシア皇帝]][[アレクサンドル2世]]は、ドイツとの戦いに備えるために[[カウナス]]郊外に[[要塞]]を建設することを承認した。
この時代、[[1868年]]から[[1914年]]までの間に、約
=== リトアニア共和国として独立 ===
105行目:
[[第一次世界大戦]]が起きると、リトアニアは[[東部戦線 (第一次世界大戦)|東部戦線]]の戦場となった。[[1918年]][[2月16日]]、[[ロシア革命]]の余波が及ぶ中で[[リトアニア評議会]](タリーバ)はリトアニアの独立を宣言した([[リトアニア独立宣言]])。当初は[[リトアニア王国 (1918年)|リトアニア王国]]として独立したが、これは[[ドイツ帝国]]の計画したミッテル・オイローパ構想(汎ヨーロッパ主義)の一環であった。その後、[[1918年]][[11月11日]]に第一次世界大戦でドイツ帝国が敗北して崩壊すると、[[リトアニア共和国 (1918年-1940年)|リトアニア第一共和国]]となった。
その後のリトアニアは、[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]およびドイツとの領土問題を抱えることとなる。[[1920年]]、ジェリコフスキ将軍率いるポーランド軍はヴィリニュス地域を侵攻、その後この地域にはリトアニア共和国とは別に[[中部リトアニア共和国]]が建国された。中部リトアニア共和国は後にポーランドに編入されたが、リトアニアにとってヴィリニュスは歴史的首都で、憲法でも首都として制定されていたため、その後ポーランドとの間で領土問題を抱え続けることとなった。この結果、[[戦間期]]には[[カウナス]]が臨時首都とされ、ポーランド第二共和国とは[[1938年]]に至るまで国交が樹立されないままであった。この戦間期におけるリトアニア共和国の領土面積
[[File:LithuaniaCountiesDistricts1918-1940.png|thumb|第1次世界大戦後のリトアニアの領土]]
また、ドイツ([[ヴァイマル共和政]]および[[ナチス・ドイツ]])とは[[クライペダ]](メーメル)地方をめぐる[[領土問題]]を抱えていた。第一次世界大戦後、クライペダ地方は{{仮リンク|国際管理地域|en|International zone}}とされていたが、[[1923年]]にリトアニア軍が侵攻し、占領した。その後、[[1939年]]3月
リトアニア共和国はカウナスが臨時首都とされて以降は議会制民主主義体制がとられていた。[[1926年]]の軍事[[クーデタ]]により[[アンタナス・スメトナ]]を大統領とする[[権威主義]]体制に移行した。
=== 第二次世界大戦 ===
[[1939年]]8月、ナチス・ドイツは[[ヨシフ・スターリン]]治下のソ連と[[独ソ不可侵条約]]を締結。その[[独ソ不可侵条約#秘密議定書|秘密議定書]]でバルト三国と東欧の分割支配を約した。同年9月、ドイツに続いてソ連が[[ポーランド侵攻|ポーランド東部に侵攻]]。ソ連はヴィリニュス地域をリトアニアに編入する
翌年、ドイツ軍は[[バルバロッサ作戦|ソ連への侵攻を開始]]。リトアニアは[[独ソ戦]]の末期まで
[[1944年]]、[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]が再び侵攻し、その後は[[リトアニア・ソビエト社会主義共和国]]としてソ連に編入された。1944年から[[1952年]]にかけて、約10万人の[[パルチザン (軍事)|パルチザン]]がソビエト当局と戦った(「[[:en:Forest Brothers|森の兄弟たち]]」)。約3万人のパルチザン兵士およびその支援者は殺され、その
=== 独立回復へ ===
{{リトアニアの歴史}}
[[1986年]]以降、ソ連の[[ミハイル・ゴルバチョフ]]政権による[[ペレストロイカ]]や[[グラスノスチ]]を機に、国民運動[[サユディス]]が設立され、その後独立運動へと発展していった。[[1990年]]の[[1990年リトアニア最高会議選挙|リトアニア・ソビエト社会主義共和国最高会議選挙]]でサユディスは大勝利し、その後の[[1990年]][[3月11日]]、初の非共産党員の最高会議議長・[[ヴィータウタス・ランズベルギス]]が独立回復を宣言。これは[[ソビエト連邦構成共和国]]の中で
世界の複数の国は、ソ連によるリトアニア併合を[[国際法]]的に否認したままであった([[バルト諸国占領#歴史的考慮]]を参照)。リトアニアによる独立回復宣言を受けて、[[1991年]][[2月4日]]、[[アイスランド]]が世界に先駆けてリトアニアの独立を承認。その後、8月にソ連の首都[[モスクワ]]での[[ソ連8月クーデター|クーデター]]が企てられ失敗に終わると、[[9月6日]]、ソ連もリトアニアの[[国家の承認|独立を承認した]]。これによりリトアニアの独立は多くの国によって承認されるようになり、また[[9月17日]]には[[エストニア]]、[[ラトビア]]とともに[[国際連合]]に加盟した。なお、独立回復後は、[[エストニア]]や[[ラトビア]]とは異なり、残留ロシア人に対しほぼ無条件でリトアニア[[国籍]]を与えている。
[[1991年]][[12月25日]]の[[ソ連崩壊]]後、ソ連軍は[[ロシア連邦軍]]に継承されたが、[[1993年]][[8月31日]]、ロシア連邦軍は
[[2009年]][[5月17日]]、[[2009年リトアニア大統領選挙|大統領選]]が行われ、EUの財政計画・予算担当欧州委員を務める[[ダリア・グリバウスカイテ|ダレ・グリーバウスカイテ]]元財務相が圧勝し、リトアニア初の女性[[リトアニアの統治者の一覧|大統領]]に選出された。グリーバウスカイテは[[2014年リトアニア大統領選挙|2014年の大統領選]]で再選を果たした。
138行目:
[[ファイル:LithuaniaPhysicalMap-Detailed.png|thumb|right|250px|リトアニアの地勢図]]
[[ファイル:Sand dunes Curonian.jpg|thumb|upright|[[ネリンガ]]砂丘]]
リトアニア共和国はヨーロッパの北東部に位置するバルト三国の中で
西部はバルト海と面しており、砂質の海岸がおよそ
リトアニアの地形は全体的になだらか平坦である。これは[[氷河期|第4氷河期]]に形成された氷河がその後に後退した際、標高差のあまりない、細長く伸びる[[尾根]]しか残さなかったためである<ref name="lorot11">[[#ロロ, 1991|ロロ, 1991]]. p. 11.</ref>。このため小山や[[丘陵]]、[[平原]]がバルト地方の
[[ヴィシュティーティス湖]]をはじめとする多くの湖や、また[[湿地|湿地帯]]があるのが特徴的である。また[[混交湿地林]]が国土の約33%を覆っている。
フランスの地理学者による算定によれば、ヨーロッパの地理的中心はリトアニアの首都のヴィリニュスの北、数
[[植物地理学]]の観点からすると、リトアニアは中欧の特徴と東欧の特徴を合わせ持つ。また[[世界自然保護基金]]
=== 気候 ===
[[海洋性気候]]から[[大陸性気候]]まで及び、湿度は高い。夏も冬も比較的穏やかである。気温は西部と東部でやや異なり、海岸部(西部)は涼しい夏と
[[ファイル:Puckoriu-atodanga-1.jpg|thumb|left|[[ヴィリニュス]]近郊プーチュコレイの[[露頭]]]]
157行目:
年間平均降水量は海岸部で800ミリ、[[ジェマイティヤ|ジェマイティヤ地方]]高地で900ミリ、リトアニア東部では600ミリである。雪は毎年10月から4月にかけて降る。9月や5月などは[[霰]]や[[雹]]が降ることもある。激しい嵐は東部ではあまり起こらないが、海岸部では頻繁に起こる。
バルト地域における気温に関する記録は、古いものでは250年前にまで
[[2002年]]には、森林および泥炭地における火災が原因で[[旱魃]](干ばつ)も起きている<ref>[[#Sakalauskiene and Ignatavicius, 2003|Sakalauskiene and Ignatavicius, 2003]].</ref>。2006年夏には、
リトアニアにおける月別の平均最高・最低気温および最高・最低気温記録は以下の通りである。
232行目:
==== 基礎自治体 ====
'''基礎自治体'''({{lang|lt|savivaldybė}}、複数形: {{lang|lt|savivaldybės}})はリトアニアの中でももっとも重要な行政区画である。中には歴史的に'''地区自治体'''({{lang|lt|rajono savivaldybė}})と呼ばれるものもあり、そうした自治体は単に'''地区'''({{lang|lt|rajonas}})とも呼ばれる。他方'''都市自治体'''({{lang|lt|miesto savivaldybė}})と称する自治体もあり、単に'''市'''({{lang|lt|miestas}})とも呼ばれる。それぞれの自治体には選挙で選ばれた執行機関がある。過去には自治体の選挙は3年に1度行われていたが、現在では4年に
==== 区 ====
国内全体で500以上設置されている'''区'''({{lang|lt|seniūnija}}、複数形: {{lang|lt|seniūnijos}})は、リトアニアで最小の行政区画であり、国政レベルでは何の機能も果たすものではない。区は各家庭に対して必要な公共サービスを提供する。
=== 文化的区分 ===
[[ファイル:Liet-etno-regionai.png|thumb|right|300px|文化的観点による区分
なお、行政区分とは別に、文化的な観点から5つの地方に分けられる。
* '''[[アウクシュタイティヤ]]''' {{lang|lt|Aukštaitija}} - 北東部
256行目:
|-
|-
!rowspan=23 width:150|[[ファイル:Vilnius - Rotušės aikštė.jpg|135px|ヴィリニュス]]<br/>[[ヴィリニュス]]<br/>[[ファイル:
! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"|
! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"|[[リトアニアの都市の一覧|都市名]]
308行目:
{{See also|リトアニアの統治者の一覧|リトアニアの首相}}
[[ファイル:2009 m. Respublikos Prezidento rinkimai Dalia grybauskaitė 00.jpg|thumb|right|[[ダリア・グリバウスカイテ]]元大統領(2009年7月12日就任)]]
[[
1990年3月11日の独立回復宣言以来、リトアニアは[[共和制]][[国家]]として民主主義の伝統を維持してきた。1992年10月25日には独立回復後初めて[[1992年リトアニア議会選挙|議会選挙]]が行われたが、同日行われた国民投票では、投票者の56.75%がリトアニア共和国憲法の制定を支持している<ref name=referenda>{{lt icon}} [http://www3.lrs.lt/docs2/QKVXRGNF.DOC Nuo 1991 m. iki šiol paskelbtų referendumų rezultatai]. [[セイマス]]. 2006年6月4日閲覧.</ref>。憲法に関しては、とりわけ大統領の権限について激しく議論がなされ、1992年5月23日に行われた大統領制に関する国民投票では有権者の41%が[[リトアニアの統治者の一覧|大統領職]]の復活を支持していた<ref name=referenda/>。結果、[[半大統領制]]が導入されるに至った<ref>Lina Kulikauskienė, Lietuvos Respublikos Konstitucija (Constitution of Lithuania), Native History, CD, 2002. ISBN 9986-9216-7-8</ref>。
314行目:
大統領はリトアニアの国家[[元首]]とされ、5年任期で[[直接選挙]]によって選ばれ、最大で2期10年まで務めることができる。大統領選挙で過半数の票を獲得した候補が大統領に就任するが、いずれの候補も過半数の票を獲得しなかった場合は上位2名の候補による決選投票が行われる。
大統領職は儀礼的なものに過ぎないが、しかし[[外交]]や[[防衛]]方針の策定に加わり、それらを指揮する役割を果たす。大統領は、[[セイマス]](議会)の承認を得て[[リトアニアの首相|首相]]を任命し、首相が指名した
[[2014年リトアニア大統領選挙|2014年に行われた大統領選挙]]では[[ダリア・グリバウスカイテ]]が再選を果たし、二期目を2019年7月12日まで務めた。なお、彼女はリトアニア史上初の女性大統領である。
323行目:
憲法第91条により、内閣は首相および各大臣によって組織される。
現職は以下の通り(なお、以下の表における役職名は、現職が男性の場合は男性名詞
[[ファイル:
{| class="wikitable"
|+
|-
! 役職 !! 現職
377行目:
=== セイマス ===
[[ファイル:Vilnius.Seimas,
[[セイマス]]
[[2016年リトアニア議会選挙|2016年に行われた選挙]]では、[[リトアニア農民・緑の連合]]が54議席を獲得し第1党となり、[[リトアニア社会民主党]]とともに連立政権を組んだ。
=== 裁判所 ===
* リトアニア最高裁判所
* リトアニア上訴裁判所
* 地方裁判所
** ヴィリニュス地方裁判所
** カウナス地方裁判所
** クライペダ地方裁判所
** シャウレイ地方裁判所
** パネヴェジース地方裁判所
* 地区裁判所
** ヴィリニュス市第1地区裁判所 ({{lang|lt|Vilniaus miesto pirmasis apylinkės teismas}})
448行目:
=== 憲法裁判所 ===
リトアニア憲法裁判所
=== 国際関係 ===
[[
[[2009年]][[5月4日]]時点、リトアニアは154
{{cite web | url = http://www.urm.lt/index.php?-1095894177 | title = List of countries with which Lithuania has established diplomatic relations | date = 2009-05-04 | publisher = Lietuvos Respublikos užsienio reikalų ministerija | location = Vilnius | language = 英語 | accessdate = 2010-12-14}}</ref>。また、6大陸94
リトアニアは[[1991年]][[9月18日]]以来、[[国際連合]]加盟国であり、また国連機関やその他国際機関にも加盟している。また[[欧州安全保障協力機構]]
== 軍事・安全保障 ==
{{Main|リトアニア軍}}
[[ファイル:LT KASP mokymai.jpg|thumb|160px|right|リトアニア国防義勇軍の兵士]]
リトアニアの軍隊は約
リトアニアの国防制度は、国家安全保障戦略に示されている概念「総合的で絶対的な防衛」にもとづいている。リトアニアにおける防衛政策は、リトアニア社会に通常防衛の準備をさせ、リトアニアが西欧の安全保障・防衛機構に統合していくことを目的とする。国防省は戦闘部隊、捜索救難、諜報機関を管轄する<ref name="WB">{{cite web|url=http://www.kam.lt/EasyAdmin/sys/files/BK-En1.pdf |title=White Paper Lithuanian defence policy |language=リトアニア語 |publisher=Kam.lt |date= |accessdate=2010年4月25日}}</ref>。リトアニアに設置されている軍種は以下の通り。
* [[ファイル:
* [[ファイル:Emblem of the Lithuanian Air Force.svg|25px]] [[リトアニア空軍|空軍]] ({{lang|lt|Karinių oro pajėgų}})
* [[ファイル:
* [[ファイル:Specialiųjų operacijų pajėgos.png|28x28ピクセル]] 特殊作戦部隊 ({{lang|lt|Specialiųjų operacijų pajėgų}})
* [[ファイル:
また、
ロシアによるとみられる[[サイバー攻撃]]が頻発しており、2016年に「ナショナル・サイバー・セキュリティー・センター」を設立して防衛体制を強化している<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO36426750S8A011C1FF8000/ 「リトアニア、米軍駐留要請/スクバリネリス首相に聞く/ロシア脅威 サイバーでも」]『日本経済新聞』朝刊2018年10月13日(国際面)2018年10月19日閲覧。</ref>。
551行目:
==== 方言 ====
[[ファイル:Map of dialects of Lithuanian language.png|thumb|300px|リトアニア語の方言<ref>{{cite journal | last = Zinkevičius | first = Zigmas | coauthors = Alexas Stanislovas Girdenis | title = Dėl lietuvių kalbos tarmių klasifikacijos | journal = Kalbotyra (Slavistica Vilnensis) | volume = 14 | date = 1966 | issn = 1392-1517 }}</ref>
リトアニア語には、主に内陸側の[[アウクシュタイティヤ]]方言(高地リトアニア語)と海岸側の[[サモギティア語|ジェマイティヤ方言]](低地リトアニア語)の2つの主要な[[方言]] (tarmės) がある。標準語とジェマイティヤ方言の違いは顕著である。現在のジェマイティヤ方言は13世紀から16世紀にクロニア語の影響を受けながら形成されていった。これらリトアニア語の方言は[[リトアニアの地方行政区画|リトアニアの民族誌上の地方]]と強く関連している。
563行目:
=== 宗教 ===
{{main|リトアニアの宗教}}
[[ファイル:Lithuania Hill of Crosses 1.jpg|right|thumb|250px|[[シャウレイ]]の[[十字架の丘]]
[[リトアニアの宗教]]は現在[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]が大勢を占め、他の[[宗教]]は少数となっている。しかし[[リトアニアの歴史|歴史]]的には多くの宗教が信奉されてきた。もともと現在のリトアニアにあたる地域は[[バルト人]]の土地であり、彼らは独自の[[多神教]]信仰を持っていた。しかしその後[[キリスト教]]が徐々にリトアニアに入ってくるようになった。農民層が中心のリトアニア人にカトリックが浸透するのは[[16世紀]]頃と言われている<ref>[[#畑中、チェパイティス, 2006|畑中、チェパイティス, 2006]]. p. 19.</ref>。
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