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== 生涯 ==
尚徳は、尚泰久王の第三王子として1441年に生まれた。父王の[[薨去]]後、妾腹でありながら長兄・金橋王子を退けて即位した。金橋王子の母は王妃であったが、謀反の嫌疑をかけられた[[護佐丸]]の娘であったことから、即位できなかったと見られている。翌年には、[[明]]から[[冊封]]を受けた。
 
[[マラッカ]]に使者を派遣し交易を始め、市場を拡大させた。北は日本、朝鮮、南はマラッカ、[[タイ王国|シャム]]と琉球は中国交易を中心とした、大交易時代でもあった。
 
[[1466年]]に国王自ら20002千の兵を率いて[[喜界島]]へ遠征し、琉球王国の領土に加えた。国王自ら軍を率いて討伐に向かうのは、祖父・[[尚巴志王]]以来のことであった。この遠征の強行などの政策によって重臣の信頼を次第に失ったのが、死後の政変に繋がっていったとされる。その同年に使節を[[足利義政]]に送った。翌年、朝鮮にオウムや孔雀を贈った返礼として、[[方冊蔵経]]を贈られた。他に[[天界寺]]を創建した。
 
[[1469年]]、29歳で薨去した。死後、金丸(後の[[尚円王]])らの[[クーデター]]により[[世子]]は殺害された。<ref>新城俊昭「琉球・沖縄史」東洋企画</ref>
 
一族の多くが追放、ないしは殺害された。ある伝承では、[[久高島]]参詣に出向いた尚徳は、大里家の美少女[[ノロ|祝女]]クニチヤサに心を奪われ、寵愛のあまりに帰還を忘れ、その隙に首里でクーデターが起こったとされる。異変を感じて首里に戻ろうとしたが、船で一里も進まないうちに、行き合わせた漁船から王家の虐殺と金丸の即位を聞き、憤って海に身を投げて死んだという。{{要出典|date={{#time:Y年n月|+9 hours}}}}