「テノチティトラン」の版間の差分

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アステカ帝国の発展に伴って、テノチティトランは[[メソアメリカ]]で最大の都市となった。テノチティトランの交易圏は、[[メキシコ湾]]沿岸、[[太平洋]]沿岸、またおそらくは[[インカ帝国]]まで及んだ。
 
テノチティトランは湖の湖岸といくつかの橋で結ばれていた。都市には多くの水路が築かれ、橋が渡されて、都市のすべての場所は、徒歩でも[[カヌー]]でも訪れることができた。皇帝{{仮リンク|[[アウィツォトル|en|Ahuitzotl}}]]の治世下、ある洪水の後、[[メソアメリカ]]における最も壮麗な様式を用いた都市が再建された。
 
コルテスがテノチティトランを訪れたのは[[1519年]][[11月8日]]である。このときテノチティトランは20万人から30万人の人口を持ち、同時代の[[パリ]]や[[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]](現在の[[イスタンブール]])と並ぶ世界有数の規模であったと考えられている。このときコルテスは神[[ケツァルコアトル]]の再来と信じられたため、ほとんど抵抗なくこの都市を征服することが出来た。[[コンキスタドール|コンキスタドーレス]]の中には[[ヴェネツィア]]やコンスタンティノポリスを訪れたことがある者もいたが、いままで訪れた都市の中ではテノチティトランが最も素晴らしいとみな証言している。