「成田空港問題」の版間の差分

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しかし、[[冷戦]]終結や[[江藤隆美]][[運輸大臣]]が過去の誤りを公式に認めたことを契機として、1980年代末頃から話し合いの機運が再び生まれ、反対派の一部と関係者の間で成田空港問題解決が模索された。[[1991年]]([[平成]]3年)[[11月]]からは、[[隅谷三喜男]][[東京大学]]名誉教授ほか4名の学識経験者(隅谷調査団)主宰のもとで15回に亘る「[[成田空港問題円卓会議|成田空港問題シンポジウム]]」が開催され、旧熱田派・運輸省・空港公団・千葉県で公開討論会が行われた。ここで旧熱田派は「強制的手段をとらない」との言質を国から引き出すことに成功し、更に引き続き[[1993年]](平成5年)9月から12回に亘って開催された「[[成田空港問題円卓会議]]」で、今後の新東京国際空港の整備を[[民主主義]]に基づく対等な話し合い手続きで進めていくことが確認された。
 
円卓会議の結論を受け、[[1995年]](平成7年)、当時の[[内閣総理大臣]]であった[[村山富市]]がそれまでの政府による強権姿勢を政府を代表して謝罪し、[[土地収用法]]に基づく[[行政代執行]]による成田空港の土地強制収用の手段を放棄が確認された。この謝罪は地元の一定の評価を得て、その後二期工事への[[土地収用]]と集団移転に応じる[[農民]]・[[地主]]が出てきた。
 
[[三里塚闘争]]は、それまで強制的に進めることが当たり前だった、日本の公共事業のあり方を一変させた出来事だった<ref name="sankei20150803" />。