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{{出典の明記|date=2018年12月5日 (水) 05:46 (UTC)}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 松前昌広
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[江戸時代]]後期
| 生誕 = [[文政]]8年[[8月27日 (旧暦)|8月27日]]([[1825年]][[10月9日]])
| 死没 = [[嘉永]]6年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]([[1853年]][[9月10日]])
| 改名 = 準次郎(幼名)、昌広
| 別名 = 均斎
| 諡号 = 均斎
| 神号 =
| 戒名 = 寛量院殿文俊耆徳大居士
| 霊名 =
| 墓所 = [[北海道]][[松前郡]][[松前町 (北海道)|松前町]] 大洞山法憧寺
| 官位 = [[従五位|従五位下]][[志摩国#江戸時代|志摩]][[国司|守]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 = [[徳川家慶]]
| 藩 = [[蝦夷地|蝦夷]][[松前藩]]主
| 氏族 = [[蠣崎氏|松前氏]]
| 父母 = 父:[[松前見広]]、母:[[村山信敏]]妹<br/>養父:''[[松前良広]]''
| 兄弟 = [[松前良広|良広]]、'''昌広'''
| 妻 = 正室:'''[[松平乗全]]養女・浪子'''<br/>側室:静([[山崎氏)十三]]娘・静
| 子 = [[松前徳広|徳広]]、[[松前縄之助|縄之助]]<br/>養子:'''''[[松前崇広|崇広]]'''''
| 特記事項 =
}}
 
'''松前 昌広'''(まつまえ まさひろ)は、[[江戸時代]]後期の[[大名]]。[[蝦夷地]][[松前藩]]11代藩主。[[官位]]は[[従五位|従五位下]]・[[志摩国#江戸時代|志摩守]]
 
== 生涯 ==
[[文政]]8年(1825([[1825]])8月27日、9代藩主・[[松前章広]]の次男・[[松前見広]]の次男として福山城にて誕まれる。[[天保]]4年8月11日、福山から江戸に移る。天保10年([[1839年]])7月21日、兄[[松前良広|良広]]の養嗣子となる。同年10月16日、養父良広の死去により、家督を継ぐ。同年11月1日、11代将軍[[徳川家斉]]にお目見えする。天保11年3月18日、従五位下志摩守に叙任する。
 
儒学者の[[山田三川]]を登用して藩政改革を行なおうとするが、当時の松前藩では藩主の早世が相次いだために重臣・[[松前広純|松前内蔵広純]](曾祖父の8代藩主・[[松前道広|道広]]の五男)の専横が行なわれていた。このため、昌広は天保13年([[1842年]])9月、義父・[[松平乗全]]の力を後ろ盾にして12月に内蔵を家禄半分にしたうえで失脚に追い込み、[[江戸]]で蟄居させた。その上で三川を側用人・表用人として改めて用いて、天保15年([[1844年]])5月から倹約・風紀粛清・奢侈禁止などを中心とした藩政改革を行った。ただし、藩主の昌広は病弱な上に精神病にもかかっていたため、藩政は三川と[[松前広茂]]によって行なわれ、昌広は江戸の藩邸で養生していただけであった。
 
[[弘化]]4年([[1847年]])に入ると、昌広の病状はさらに悪化し、酒色に耽るようにもなったため、[[嘉永]]2年([[1849年]])6月9日、家督を養子・[[松前崇広|崇広]]に譲って隠居した。その後は福山城北東の北殿で余生を送り、嘉永6年(1853([[1853]])8月8日に死去した。享年29。
 
== 系譜 ==
*父:[[松前見広]](1805-1827)
*母:[[村山信敏]]妹
*養父:[[松前良広]](1823-1839)
*正室:浪子 - [[松平乗全]]養女、[[本多忠升]]娘
*側室:静 - [[山崎十三]]氏
**長男:[[松前徳広]](1844-1869)
*生母不明の子女
**男子:縄之助
*養子
**男子:[[松前崇広]](1829-1866) - [[松前章広]]の六男
 
{{松前藩主|11代|1839年 - 1849年}}
 
{{DEFAULTSORT:まつまえ まさひろ}}
[[Category:松前藩主|まさひろ]]
[[Category:松前志摩守家|まさひろ]]
[[Category:松前藩主|まさひろ]]
[[Category:1825年生]]
[[Category:1853年没]]