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'''野口 健司'''('''のぐち けんじ''' [[天保]]十四年([[1843年]])~[[文久]]三年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]([[1864年]][[2月4日]]))。[[水戸藩]]出身。[[新選組]] 副長助勤。
 
[[江戸]]の百合元昇三道場で[[神道無念流]]を学び[[目録]]を得る([[免許皆伝]]とも)。同門には[[新選組]]幹部となる[[永倉新八]]がいた。
== 野口の関与した事件 ==
*大坂力士の乱闘
*大和屋焼き打ち
*[[八月十八日の政変]]
 
文久3年(1863年)2月、[[浪士組]]の参加して上洛。江戸帰還に反対して[[京都]]に残留して、同年3月の[[壬生浪士組]]結成に参画する。水戸藩出身であったために[[芹沢鴨]]、[[新見錦]]、[[平間重助]]、[[平山五郎]]ら水戸派(芹沢派)の一人とされている。壬生浪士組では[[副長助勤]]となり、結成初期の幹部となった。野口は芹沢と行動を共にして、芹沢が引き起こした乱行である大坂力士の乱闘、大和屋焼き打ちに関与したと見なされている。[[八月十八日の政変]]の際には野口も出動している。
== 野口の行動傾向 ==
*[[壬生浪士組]]のころから[[芹沢鴨]]・[[新見錦]]・[[平間重助]]・[[平山五郎]]・[[粕谷新五郎]]・[[佐伯又三郎]]らと行動を共にしていた。
*粕谷の離脱、佐伯の変死、新見の切腹、芹沢・平山の粛清および平間の逃走と、芹沢一派の人々が次々と壬生浪士・新選組から消え、最後の一人として残っていた。
*芹沢粛清事件後も逃亡の形跡がないことから、その真相を知らなかったか、野口自身は[[近藤勇]]による新体制に異存がなかったものと捉えられている。あるいは芹沢殺しの真相を密かに探求していたともされる。
 
同年9月、芹沢と平山は[[試衛館]]派([[近藤勇|近藤]]派)によって暗殺され、平間は逃亡した。暗殺事件の夜、野口は角屋に残って難を逃れている。これ以前に新見も[[切腹]]させられており、水戸派は壊滅した。水戸派のうち野口だけは粛清されず、その後も幹部の一人として隊に残留している。芹沢粛清事件後も逃亡の形跡がないことから、その真相を知らなかったか、野口自身は近藤勇による新体制に異存がなかったものと捉えられている。剣術の同門に試衛館派の永倉がいたことも、この時には粛清されなかった理由と推察される。
== 野口の最期 ==
 
*切腹を命令され、無念の最期を遂げた。
だが、同年12月27日、野口は突然切腹を命じられ、[[安藤早太郎]]の介錯で切腹した。切腹の原因については明らかではない。[[八木源之丞]]の後年の証言では「ささいなことで詰め腹を切らされたのではないか」とされている。享年21。
*切腹命令の原因となる詳しい事跡は後世に伝わっていない。
 
*切腹ではなく、何らかの理由(例えば、芹沢粛清の真相探求をしていたため)で謀殺されたという説もある。
*そもそも切腹どころか死に追いやられてすらいない、とも言われる(2005年のNHK[[大河ドラマ]][[新選組!]]では野口この説をとり、の死に落胆するものの、近藤に諭されて帰郷している)がこれは創作である。
 
== 関連項目 ==