「ポルトガル王国」の版間の差分

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ジョアン二世についての記述が抜けていたためその点を補足。金七紀男著の「図説ブラジルの歴史」から引用。
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[[1129年]]、[[ポルトゥカーレ伯領|ポルトゥカーレ伯]][[アフォンソ1世 (ポルトガル王)|アフォンソ1世]]がポルトゥカーレ公を名乗り[[カスティーリャ王国]]より独立、[[1139年]]より王を称した。[[国土回復運動]](レコンキスタ)によって勢力を拡大した。[[1242年]]、[[サンシュ2世 (ポルトガル王)|サンシュ2世]]は[[アルガルヴェ地方]]を征服して[[アルガルヴェ王国]]{{enlink|Kingdom of the Algarve}}を建国し、それ以降のポルトガル王はアルガルヴェ王を兼ねるようになった。1383年、[[フェルナンド1世 (ポルトガル王)|フェルナンド1世]]が嗣子なく没すると、フェルナンド1世の娘で[[カスティーリャ王国]]の王妃であった[[ベアトリス・デ・ポルトゥガル (カスティーリャ王妃)|ベアトリス]]が王位を請求し、フェルナンド1世の庶弟である[[ジョアン1世 (ポルトガル王)|ジョアン]]と争った。ジョアンはカスティーリャ王国軍を退け、ジョアン1世として即位した([[アヴィス王朝|アヴィス朝]])。
 
[[大航海時代]]において[[スペイン王国]]とともに活躍し、[[アフリカ]]・[[アジア]]・[[南アメリカ|南米]]に広大な[[植民地]]を領有した([[ポルトガル海上帝国]])。エンリケ王子が死去する1460年までに、ポルトガルは遠洋航海に耐える船を改良してヨーロッパ最先端の海洋開発国に成長した。ジョアン二世(1455~95)の治世下の1488年には、バルトロメウ・ディアスが喜望峰鵜飼いに成功し、胡椒の地インドへの道が開けた。<ref name=":0">{{Cite book|title=図説ブラジルの歴史|date=2014年10月30日|year=2014年|publisher=河出書房新社|last=|author=金七紀男}}</ref>1580年、[[エンリケ1世 (ポルトガル王)|エンリケ1世]]が嗣子なく死去すると、[[スペイン王]][[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]がリスボンを占拠し、ポルトガル王に即位した。ポルトガルはスペインに併合こそされなかったものの、1581年から1640年の期間、スペイン王がポルトガル王を兼ねる[[同君連合]]の状態にあった([[スペイン帝国]])。しかしスペインに対するポルトガル貴族の反発は根強く、1640年の[[ポルトガル王政復古戦争]]によって同君連合は解消され、アヴィス朝の分家である[[ブラガンサ王朝|ブラガンサ家]]の[[ジョアン4世 (ポルトガル王)|ジョアン4世]]が新たな王となった。
 
1808年には[[ナポレオン戦争]]から逃れ、最大の植民地[[ブラジル]]に宮廷を移した([[ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国]])。1821年に宮廷は本国に復帰したが、[[ブラジル帝国]]の独立を許すこととなった。1828年には王位継承をめぐって[[ポルトガル内戦]]が勃発し、1834年まで続いた。以降も内政の混乱が続いて共和主義者が台頭し、1910年の[[1910年10月5日革命|共和政革命]]によって王国は消滅した。
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== 参考文献 ==
金七紀男「図説ブラジルの歴史」、2014年10月24日、河出書房新社<ref name=":0" />
 
== 関連項目 ==