「鉄砲光三郎」の版間の差分

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=== 人物と芸風 ===
祖母は[[御詠歌]]を唸らせる名人であった、そんな縁で幼少の頃から地元の河内音頭に親しみ、3歳で初めて櫓に立つ。[[関西大学]]法学部法律学科卒業後<ref>[http://www.kansai-u.ac.jp/nenshi/sys_img/article_7_105.pdf 大入り満員の支援]関大(関西大学新聞昭和42年8月15日)</ref>、[[八尾市|八尾市役所]]に勤務の傍らアルバイトで音頭取りを続けていたが、人気が嵩じてプロに転向し市役所を退職。[[1955年]]に盆踊りの司会者であった光子と結婚。太鼓が得意であった為に伴奏でコンビを組む事になる。歴代の三味線奏者は[[宮川左近ショウ|暁照雄]]、富岡花子(浪曲師の[[藤川友春]]〈初代〉の姪)、津軽三味線佐々木流の佐々木壮明など。
 
[[1959年]]に[[新世界 (大阪)|新世界]]・[[新花月]]で寄席初舞台。[[1961年]]に[[レコード]]『鉄砲節河内音頭』が[[ミリオンセラー]]になり、河内音頭ブームを再燃させた結果、テレビ、ラジオの演芸番組のみならず、[[歌謡曲]]、[[仁侠映画]]の世界、海外公演にも活躍の場を広げた。[[1968年]]12月、浅草[[国際劇場]]の舞台に立ち、関東において「河内音頭」を先駆的に伝えることとなる。