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{{Wikiquote|麻原彰晃}}
'''麻原 彰晃'''(あさはら しょうこう、本名:'''松本 智津夫'''〈まつもと ちづお〉、[[1955年]]〈[[昭和]]30年〉[[3月2日]] - [[2018年]]〈[[平成]]30年〉[[7月6日]]<ref group="web" name="nhk180706">{{Cite news|title=オウム真理教 松本智津夫死刑囚に死刑執行|newspaper=NHK|date=2018-07-06|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180706/k10011513621000.html|accessdate=2018-07-06|archivedate=2018-07-06|archiveurl=http://web.archive.org/web/20180706025032/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180706/k10011513621000.html}}</ref>)は、[[熊本県]]出身の[[日本]]の[[宗教家]]、[[テロリスト]]。[[宗教団体]][[オウム真理教]]の元代表・[[教祖]]。日本で唯一の「最終[[解脱]]者」を自称していた{{Sfn|東京キララ社|2003|p=54}}。[[視覚障害者]]
 
== 概要 ==
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=== 成人前 ===
==== 松本智津夫 ====
1955年3月2日午前3時34分、麻原彰晃こと松本智津夫は、[[熊本県]][[八代市]]高植本町<ref group="注" name="A">判決書には熊本県[[八代郡]][[金剛村]]と記載されているが、金剛村は[[1954年]][[4月1日]]に八代市に編入され、智津夫の出生時には消滅していた。</ref>の「松本畳店」を経営する[[畳]]職人の家庭の四男(男6人女3人の9人兄弟の第七子)として生まれた{{Sfn|東京キララ社|2003|p=9}}<ref>「「上に立つ」…盲学校に原点」読売新聞 2004年2月4日</ref>{{Sfn|高山|2006|p=21}}<ref group="web" name="shitsui"/>{{Sfn|門田|p=165}}。[[先天性]][[緑内障]]のため生来、左目がほとんど見えず、右目の[[視力]]は1.0程度だった{{Sfn|高山|2006|p=21}}。12歳年上の長兄は全盲、五男も[[弱視]]だった。[[藤原新也]]は、「麻原兄弟の視覚障害が[[水俣病]]の影響であり、それゆえに同じく視覚障害を起こす[[サリン]]を使ったのではないか」<ref group="注">ただし後の裁判等で、麻原は[[ホスゲン]]や[[ボツリヌス菌]]など他にも多くの[[オウム真理教の兵器]]を開発指示しており、サリンはその中のひとつに過ぎないことがわかった(『黄泉の犬』はまだ事情がよく分かっていなかった1995年当時の文章)</ref>という仮説を立て、全盲の長兄に事件後インタビューしている<ref group="web">[http://nikkan-spa.jp/398545 「時代が生んだ犯罪」の原因を考えるということ【鴻上尚史】] 日刊SPA! 2013年4月7日</ref>。長兄の証言によると、彼も智津夫の視覚障害に関し同様の疑いを持ち、「水俣病患者として役所に申請」したことがあるが、却下されたという<ref>藤原新也『黄泉の犬』文藝春秋、2006年、pp.71-80。</ref>。
 
祖父は[[熊本県]]出身の[[日本の警察官|日本人警察官]]で、戦前に[[朝鮮半島]]に渡り、その地で[[警察署長]]を務めた。麻原の父は現在の[[大韓民国]][[全羅北道]][[益山市|益山郡]]春浦面で生まれ、[[終戦]]後、共に朝鮮から引き上げ、叔父を頼り八代に住み、当時地場産業であった畳職人として働くようになった。しかし畳の需要は落ち、7人の子を抱え生活は逼迫していた。盲学校の教諭も見たことがないほどの非常に貧しい家だった<ref name="znkrk"/>。両親は働きづめで、智津夫は兄や姉を親代わりに幼少期を送った<ref name="aumkaranotoi">NCC宗教研究所、富坂キリスト教センター『オウムからの問い、オウムへの問い』新教出版社、2004年2月27日。</ref>{{Sfn|高山|2006|p=20}}<ref>『[[週刊文春]]』[[2000年]]新年合併号{{要ページ番号|date=2013年7月}}</ref>。智津夫はいたずらっ子で農機具を盗んだり壊したりしていた。その度に兄や姉から尻を叩かれたり外に放り出されていた<ref name="anoko12"/>。[[テレビアニメ]]が大好きで、視聴中は智津夫が尊敬していた長兄にも[[チャンネル争い|チャンネル権を譲らなかった]]<ref name="anoko12"/>。
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== 麻原の子女 ==
麻原には、愛人が100人以上いたとされ、愛人とイニシエーションと称する[[性行為]]を行い<ref name="kohan19961108">1996年11月8日[[豊田亨]]/[[廣瀬健一]]/[[杉本繁郎]]公判での[[林郁夫 (オウム真理教)|林郁夫]]の証言記録より</ref>、妊娠させた結果、妻の[[松本知子|知子]]の子である6人を含めて、12人ないし15人ほどの子がいるとされる<ref group="注">[[滝本太郎]]によると[http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/t-comment27.htm 12人]。四女の松本聡香『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』([[徳間書店]])によると15人。</ref>。麻原は在家信者なので子作りをしてもいいとされていた<ref>降幡賢一『オウム法廷7』 p.48</ref>。出生時に麻原が[[阿含宗]]にいたことや、「最終解脱」前に生まれたことが理由で知子の子の間でも[[オウム真理教の階級|ステージ]](階級)は異なる<ref group="web" name="tkst"> 滝本太郎ブログ「[http://sky.ap.teacup.com/takitaro/1850.html 宗教的な地位等とブログ | 『生きている不思議 死んでいく不思議』-某弁護士日記]」 2018年2月6日閲覧</ref>。
 
四女によると麻原は、村井秀夫または上祐史浩と長女、上祐と次女、[[石川公一]]と三女、遠藤と四女、[[新実智光]]と[[石井久子]]に産ませた娘を婚姻させる計画をたてていたという<ref>松本聡香『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』 p.191</ref><ref group="web" name="joyu2"/>。また、最終解脱するにはグルの娘との合一が必要とされていた<ref group="web" name="joyu2">{{cite web | url=http://hikarinowa.net/kyokun/joyu/cat215/post-2.html | title=【3】麻原彰晃とは何者だったか | 1.上祐総括:オウム入信から現在まで | 上祐史浩個人の総括 | オウムの教訓 -オウム時代の反省・総括の概要- | first= | last= | work=[[ひかりの輪]] | accessdate=2017-11-21}}</ref>。
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=== 音楽 ===
* [[音楽]]好きであり、盲学校中学部・高等部時代に、他の寄宿生らを集め[[西城秀樹]]や[[尾崎紀世彦]]の歌を歌う「松本智津夫ショー」を何度も開催し、盲学校生を困らせた{{Sfn|高山|2006|p=38}}。空き缶をマイクの代わりにして西城秀樹の当時のヒット曲「[[傷だらけのローラ]]」を歌ったこともある{{Sfn|高山|2006|p=38}}。校内で結成したバンドでもボーカルを務め、西城の「[[情熱の嵐]]」を十八番としていた<ref>『[[週刊朝日]]増刊 オウム全記録 -彼らの暴走は本当に終わったのか- 』[[朝日新聞出版]]、2012年7月、p.12。</ref>。
*オウム真理教でも大量の[[オウムソング]]・アストラル音楽を作詞作曲(実際は[[石井紳一郎]]らが作ったものも多いとされる)、自ら歌っていたほか、弟子の[[村井秀夫]]や[[青山吉伸]]にも歌わせていた。特に[[真理党]]の選挙応援で自ら「[[尊師マーチ|しょーこーしょーこー彰晃彰晃彰晃♪]]」「しょしょしょしょしょしょしょしょーこー!」などと自分の名前の入った歌を熱唱していた姿が有名である。しまいには交響楽団[[キーレーン]]を結成し指揮棒を握っていた。カラオケ好きも盲学校時代と変わらず、尾崎紀世彦や[[中村雅俊]]の曲を歌っていた{{sfn|田村|1996|p=31}}。麻原がオウムソングの中で好きな曲は「戦え!真理の戦士たち2」「黎明」「ロード・シヴァ」など<ref>『日出づる国、災い近し―麻原彰晃、戦慄の予言』、1995年、38頁</ref>。一方ジャズや[[ロック音楽|ロック]]は嫌い<ref>麻原彰晃『尊師、麻原彰晃が斬る!』 p.178</ref>{{Sfn|東京キララ社|2003|p=38}}。
*[[うまかろう安かろう亭]]で若い女性信者に囲まれて[[カラオケ]]をしていたこともあり、[[井上嘉浩]]は麻原が女の子とキャッキャするのを見て[[VXガス|VX]]をかけてやろうかと思ったという<ref group="web">[[西田公昭]](2009)、「[https://doi.org/10.14966/jssp.KJ00004622720 オウム真理教の犯罪行動についての社会心理学的分析]」『社会心理学研究』 2001年 16巻 3号 p.170-183, {{doi|10.14966/jssp.KJ00004622720}}</ref><ref>降幡賢一『オウム法廷9』 p.90</ref>。
 
=== 視力 ===
弱視であることでは概ね一致しているが全盲かについて議論がある。
*麻原の調書によると、左目は全盲、右目は[[パラリンピック]]を目指していた高等部2年のとき0.3(熊本市立病院調べ)、薬事法違反のとき0.1(警察病院調べ)で、その後読書が困難になり、1989年頃から急激に悪化したが[[オウム真理教男性信者殺害事件|男性信者殺害事件]]のときには被害者の顔は見えていた、逮捕時には時々輪郭が見える程度に落ち込んでいて(失明しているとはいっていない)報道陣のフラッシュは全く分からなかったと語ったとされる<ref>降幡賢一『オウム法廷13』 p.250</ref>。また逮捕後、「麻原ノート」([[#逮捕|前述]])を自分で書いて弁護団に渡しているが、文字は書けたが解読してもらうのに時間がかかったという<ref group="web" name="note"/>。
*表向きには「信者への[[シャクティパット]]を繰り返したためエネルギーを消耗したうえ相手のカルマを負い、さらに目が悪くなり失明した」と説明されていたが{{Sfn|毎日新聞社会部|1995|p=15}}、他のオウム関連の裁判に証人として出廷した際、宣誓書を弁護士の言う通りに比較的短時間で書き上げ余白の部分だけ上手に切り取ったり{{Sfn|青沼|2007|p=329}}、[[宮沢りえ]]の[[ヌード]]写真集を持っていたとの報道や{{Sfn|東京キララ|p=129}}、[[観覧車]]や[[お化け屋敷]]に行ったり、子どもとキャッチボールをしていた<ref>降幡賢一『オウム法廷 グルのしもべたち上』 p.24, 『オウム真理教大辞典』 p.88</ref>、[[パトカー]]を察知したり<ref name="hu7-184">降幡賢一『オウム法廷7』 p.184</ref>、[[生物兵器]]噴霧車に乗り込み指揮をしていた{{Sfn|青沼|2007|p=233}}、ガードレールを飛び越えた(ビデオに撮影されている)<ref>上祐史浩『オウム事件 17年目の告白』 p.295</ref>との証言もあり、失明に関しては疑惑がある<ref group="注" name="EYE">ただし、視力を失ってはいても、他の感覚([[聴覚]]や[[触覚]]等)で補っていたとする反論もある。</ref>。取調べの際も目が見えないことを強調し、それを理由に供述調書へのサインを拒むなどしていたが、「刑事さんは[[竜雷太]]みたいでカッコイイですね」や「刑事さん、[[太陽にほえろ!|太陽にほえろ]]の[[石原裕次郎|ボス]]みたいですね」と語ったり、的確に障害物を避けるなどをしている。麻原の兄は事件当時、インタビューに対して「(智津夫は)今でもちっとは見えとる」と推測<ref>藤原新也『黄泉の犬』 p,70</ref>、[[薬剤師リンチ殺人事件]]に関わった元信者<ref group="注">被害者の友人Y。執行猶予判決</ref>も視力が弱いとは聞いているが失明したという話は聞いたことがないと証言している<ref>毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録5』 p.124</ref>。オウムでは「救世主は盲目の人」という予言があり、これに沿うために全盲である必要があったのではとの説もある{{sfn|田村|1996|p=15}}。
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* 妻の松本知子のほかにも、石井久子{{Sfn|東京キララ社|2003|p=15}}、タントラギーター{{Sfn|東京キララ社|2003|p=89}}、スメーダー{{Sfn|東京キララ社|2003|p=77}}、イシュタ・ヴァジリニー{{Sfn|東京キララ社|2003|p=16}}、マハームドラー・ダーキニー{{Sfn|東京キララ社|2003|p=125}}の愛人がいた。[[江川紹子]]は麻原に強姦されたと語る女性を取材している<ref>『「オウム真理教」追跡2200日』 p.133</ref>。四女の著書によれば、教団内に愛人は約100人おり、夜毎尊師の部屋には彼女たちが入れ替わり立ち代り呼ばれたが、その際には妻である松本知子は部屋の前で落ち着きなくうろうろしていた。なお、女性信者を誘う際「今度、特別なイニシエーションがあるから」と称していた<ref>『週刊朝日増刊 オウム全記録 -彼らの暴走は本当に終わったのか- 』[[朝日新聞出版]]、2012年7月、p.50。</ref>。林郁夫の法廷で「麻原はうまくて、人にものを頼むときなどに個人に対して言い訳をする。麻原はサティアンの一室で女の子たちをイニシエーションと称して可愛がっていたが、私がそのことを知ってしまった際、麻原に呼び出され、『お前たちセックスがどういうときにするか知っているか? それはな、高い世界から魂を呼び出すときにやるんだぞ』といい、麻原がそういうと皆信じてしまう」と証言した<ref name="kohan19961108" />。麻原の性癖については[[ダーキニー (オウム真理教)#麻原の性的嗜好|ダーキニー#麻原の性的嗜好]]を参照。
*女好きについては自覚があったようで「[[クリシュナ]]は[[シヴァ]]神の化身で、普段はぼうっとして女と戯れて遊んでばかりいるんだが、戦うときには相手を一気に殲滅するんだ。これはおれにそっくりだろう」と語っていた<ref group="判決" name="wa141">[http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/572/005572_hanrei.pdf 平成7合(わ)141 殺人等 平成16年2月27日 東京地方裁判所]</ref>。
* [[恐妻家]]であり、「([[石井久子]]との)不倫がばれたら[[松本知子|知子]]に殺される」と怯えていた<ref>上祐史浩『オウム事件 17年目の告白』 p.120</ref>。
 
=== 有名人 ===
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===食べ物、動物 ===
* [[メロン]]{{Sfn|東京キララ社|2003|p=132}}<ref name="hu8-117">降幡賢一『オウム法廷8』 p.117</ref>、[[寿司]]{{Sfn|高山|2006|p=67}}、[[今川焼き]]<ref name="hu8-117" />、[[ラーメン|豚骨ラーメン]]<ref name="post10">『[[週刊ポスト]]』2000年3月10日号</ref>、[[長浜ラーメン]]{{Sfn|門田|p=192}}、[[魚介類]]<ref>藤原新也『黄泉の犬』 p.73</ref>、[[砂糖]]の入っていない[[ミルクティー]]{{sfn|田村|1996|p=16}}、[[エビフライ]]{{sfn|田村|1996|p=16}}が好物とされる。
:麻原メロン好き説は広く知られた。四日間の断水断食から帰った[[井上嘉浩]]の目の前でメロンを何個も食べていたこともあった{{Sfn|門田|p=221}}。サティアン近辺で信者が熊本県産高級メロンをまとめ買いしていたとの情報もある<ref>「麻原氏用?高級メロンまとめ買い」 東京新聞 1995年5月7日</ref>。だが麻原は取り調べでメロンだけでなく果物全般が好きと供述しており<ref name="me"/>、[[安田好弘]]弁護士に対しても「メロンなんかここ2~3年間食べたことがない。好物は[[バナナ]]なのに」と言った。安田は、「バナナでは安くてだめなんでしょうね、弟子に粗食を強いて自分だけ贅沢していたという検察側のシナリオの下では」と語る<ref group="web" name="aera" />。
*夕食の時間に知子が戻らなかった時には麻原は、[[インスタントラーメン]]を作ろうとし湯を煮詰めて[[鍋]]を焦がしたことがあり、それ以降は長女にラーメン作りを依頼するようになる。ある知人はヨガ行者は粗食ばかりと思っていたら、麻原がインスタントラーメンを食べているのを見て驚いたという{{Sfn|毎日新聞社会部|1995|p=51}}。
*信者には肉食や[[アイスクリーム|アイス]]を禁じていたが、[[ファミリーレストラン|ファミレス]]で[[焼き肉]]重、まぐろ丼、いくら丼、オニオンスープ、[[味噌汁]]二杯、アイスなどを勢いよく食べていたこともあった<ref>降幡賢一『オウム法廷 グルのしもべたち上』 p.23</ref>。一時期ファミレス中毒になり連日通っていた<ref>松本聡香『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』 p.77</ref>。捜査で第6サティアンから[[牛肉]]と[[エビ]]が発見されたが、取り調べで肉食については断固否定した<ref name="me">「オウム真理教麻原容疑者『メロン以外の果物も好き』」毎日新聞 1995年5月21日</ref>。
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* 他の証人が証言している最中に割り込んだり、ツッコミを入れたり、つぶやいたり、突然大声を発することがあった<ref>{{cite news|title=[オウム裁判]松本智津夫被告・第35回公判 「教祖の法廷」全記録(その2止)|date=1997-04-26|page=17|newspaper=毎日新聞 東京朝刊|publisher=毎日新聞社}}</ref>。[[阿部文洋]]裁判長は「私もね、たくさん裁判をやってきたけど、あなたのようにね、静かにできない被告人はいないよ」と語り、法廷は笑いに包まれた<ref>毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録2』 p.31</ref>。
* 「アイ キャン スピーク イングリッシュ ア リトル<ref group="web" name="ICAN">[https://abematimes.com/posts/3872224 地下鉄サリン事件から23年、真相を語らなかった松本死刑囚 森達也氏「麻原裁判は、やり直されるべき」 | AbemaTIMES] 2018年3月18日閲覧。</ref>」など誤った英語で話し出すことが多かった。英文法的には間違いが目立っていたが、単語は難易度の高いものを使っていた。さらに基本的な単語を忘れた時、弁護人が教える場面も見られた。[[豊田亨]]の弁護人から「なんか、あなた、都合が悪くなると英語をしゃべってるようにみえる」と指摘されたこともある<ref name="hu10-167">降幡賢一『オウム法廷10』 p.167</ref>。さらに豊田の弁護人に「脳波通信」を試み、脳波で映像を発信するから受信しろと要求した。豊田の弁護人が「修行してないから受信できない」と断っても「送信」し続けた<ref name="hu10-167"/>。
* [[]]を患っていたためか裁判中よく揺れていた<ref>毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録5』 p.112</ref>。
*傍聴席を向き人差し指で空中に「無」「罪」と書いてみせるパフォーマンスもあった<ref>毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録4』 p.119</ref>。
* 意味不明な発言。
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[[Category:日本の殺人犯]]
[[Category:日本のテロリスト]]
[[Category:日本の犯罪者]]
[[Category:日本の犯罪組織指導者]]
[[Category:阿含宗]]