「カナーン・バナナ」の版間の差分

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=== 大統領として ===
1960年代、党のメンバーの多くが逮捕されていく中、バナナは家族と共に[[日本]]に逃れ、[[関西大学]]で学んでいる。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に逃れ亡命し[[1975年]]まで帰国することができなかった。バナナは帰国した際に逮捕されたものの1年後に釈放され、自宅軟禁状態に置かれた。一方で、[[アベル・ムゾレワ]]による活動への参加は認められていた。しかし、バナナはそれらをやめて、スミス政権打倒を掲げたロバート・ムガベらのジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)に加わった。ローデシアに戻った[[1976年]]、バナナはZANUの活動を助けたとして再び逮捕される。[[1979年]]、最後のイギリス人統治者となった[[クリストファー・ソームズ]]により、釈放された。<ref name="Telegraph">{{cite web |title=Canaan Banana | work=Telegraph Media Group Limited | url=http://www.telegraph.co.uk/news/main.jhtml?xml=/news/2003/11/12/db1201.xml&sSheet=/opinion/2003/11/12/ixopright.html | accessdate=2006-11-13 }}</ref>
 
[[1980年]]、独立後の新しい憲法の下で、バナナはジンバブエの初代大統領に選ばれた。これはジンバブエ初の黒人のリーダーでもあった。<ref name="Bio"/>また[[1982年]]には、バナナの名前についてのジョークを禁じる法が定められた。<ref name="Telegraph"/>[[1987年]]、バナナの儀式的な<ref name="timessodomy">{{cite web |title=Former President of Zimbabwe Convicted of Sodomy | work=''New York Times'' | url=http://www.ilga.info/Information/Legal_survey/africa/supporting%20files/zimbabwe_banana.htm | accessdate=2007-07-08 }}</ref>大統領職は、行政権を付与した上でムガベに引き継がれた。バナナは大統領を退いた後、アフリカ統一機構の外交官を務めたほか、ジンバブエ大学宗教学部の学部長となった。また、独立活動家の2つの政党、ジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)とジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)を合体させ、[[ジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線]](ZANU-PF)を誕生させるのに大きな役割を果たし、ZANU-PFは[[1988年]]に誕生した。{{要出典|date=2007年7月}}
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[[Category:ジンバブエの大統領]]
[[Category:ジンバブエの亡命者]]
[[Category:関西大学出身の人物]]
[[Category:両性愛の人物]]
[[Category:1936年生]]