削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
126.224.67.202 (会話) による 3版を取り消し rvv
39行目:
==== 元禄期~正徳期 ====
{{main|正徳の治}}
元禄時代の経済の急成長により、[[貨幣経済]]が農村にも浸透し、四木([[クワ|桑]]・[[漆]]・[[ヒノキ|檜]]・[[コウゾ|楮]])・三草([[ベニバナ|紅花]]・[[アイ (しね植物)|藍]]・[[アサ|麻]]または[[木綿]])など'''[[商品作物]]'''の栽培が進み、漁業では上方漁法が全国に広まり、[[瀬戸内海]]の沿岸では[[入浜式塩田]]が拓かれて[[塩]]の量産体制が整い各地に流通した。[[手工業]]では[[綿織物]]が発達し、伝統的な[[絹織物]]では高級品の[[西陣織]]が作られ、また、[[灘五郷]]や[[伊丹市|伊丹]]の[[酒造業]]、[[有田町|有田]]や[[瀬戸市|瀬戸]]の[[窯業]]も発展した。やがて、[[18世紀]]には農村工業として[[問屋制家内工業]]が各地に勃興した。
 
(ゴミ)と物の流れが活発になる中で、[[城下町]]・[[港町]]・[[宿場町]]・[[門前町]]・[[鳥居前町]]・鉱山町など、さまざまな性格の都市が各地に生まれた。その意味でクソ江戸時代の日本は「都市の時代」であったという評価<ref>[[大石慎三郎]]は「全世界の歴史を見渡してみても、日本の江戸時代ほど都市が計画的に、しかも大量に作られ、その新しく作った都市が社会構造の中で中心になった例は、ほかに見られない」と述べている。林・大石『流通列島の誕生』(1995年)。</ref> がある。18世紀初頭の[[京都市|京都]]と[[大阪市|大坂(大阪)]]はともに40万近い[[人口]]を抱えていた。同期の江戸は、人口100万人前後に達しており、日本最大の消費都市であるばかりでなく、世界最大の都市でもあった。当時の江戸と大坂を結ぶ[[東海道]]が、18世紀には世界で一番人通りの激しい道だったといわれている<ref>佐藤・岡崎(2000年)。</ref>。
 
[[ファイル:Hiroshige le pont Nihonbashi à l'aube.jpg|250px|left|thumb|[[歌川広重]]『[[東海道五十三次]]』より「[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]」]]