「信濃国」の版間の差分

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7世紀代の信濃を記すものとして知られる唯一の[[木簡]]は、7世紀末の[[藤原京|藤原宮]]跡から出土した「科野国伊奈評鹿□大贄」と見えるもので、『[[古事記]]』にある「[[科野国造]]」の表記と一致する。当時は科野国と書いたようである<ref>舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、17頁・20頁。</ref>。これが[[大宝 (日本)|大宝]]4年([[704年]])の諸[[国印]]鋳造時に信濃国に改められた<ref>鎌田元一「律令制国名表記の成立」、『律令公民制の研究』、塙書房、2001年。</ref>。「科野」は[[和銅]]6年([[713年]])の『[[風土記]]』を境に、「信野」を経て「信濃」へと移り変わっていく。長野県で最も古い「信濃国」の文字は、[[平成]]6年([[1994年]])に[[千曲市]]屋代遺跡群から発見され、現在は[[長野県立歴史館]]に所蔵されている[[8世紀]]前半([[715年]]~[[740年]])の木簡となる。『[[日本書紀]]』には信濃国について「是の国は、山高く谷幽し。翠き嶺万重れり。人杖倚ひて升り難し。巌嶮しく磴紆りて、長き峯数千、馬頓轡みて進かず。」とある。
 
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、南宋から帰朝した禅宗の留学僧によって「'''信州'''」と称されるようになった。[[治承]]3年([[1179年]])に[[仁科盛家]]が覚薗寺に寄進した千手観音像の木札に「信州安曇郡[[仁科御厨|御厨]]藤尾郷」とあるのが初出である。
 
== 神代に見える科野国 ==