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[[パリ・コミューン]]崩壊後、挫折を味わったナダールは写真制作にもどり、これに熱心に打ち込んだ。この時期、[[1874年]]4月、ナダールは自分のスタジオを[[クロード・モネ|モネ]]、[[エドガー・ドガ|ドガ]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]、[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]、[[カミーユ・ピサロ|ピサロ]]、[[ベルト・モリゾ|モリゾ]]、[[アルマン・ギヨマン|ギヨマン]]、[[アルフレッド・シスレー|シスレー]]ら画家たちによる展覧会の会場として貸した。当時嘲笑の的となったこの展覧会が、後に第1回[[印象派]]展と呼ばれる展覧会である。
 
ナダールはこの後キャプシーヌ大通りのスタジオを失ったが、妻による財政支援によって[[8区 (パリ)|パリ8区]]フォーブール・サン=トノレ街(Rue du Faubourg-Saint-Honoré)に新しいスタジオを構えた。[[1886年]]、ナダールは記者となっていた息子のポール・トゥールナションによる、当時100歳の化学者[[ミシェル=ウジェーヌ・シュヴルール]](Michel Eugene Chevreul)の[[インタビュー]]に同行し数枚の写真を撮った。同年9月に新聞に掲載されたインタビューはこのとき撮ったシュヴルールの写真があしらわれたもので、世界最初のフォト・インタビューとなった。
 
[[1887年]]、ナダールは隠居用の邸宅ないし[[庵]]である[[エルミタージュ]]・ドゥ・ノートルダム==コンソラション ([[:fr:Ermitage de Notre-Dame-de-Consolation (Essonne|fr]]) をパリ南東近郊[[ドラヴェイユ]]にあるセナールの森の中に買い、[[1894年]]までそこに住みパリから友人たちを迎えた。ナダールは病気がちになったが、この邸宅でゆっくり休むことができた。77歳のときに写真家として再度挑戦する気になり、息子ポールにパリでのビジネスをゆだね、ナダール自身は南仏の[[マルセイユ]]で写真館を開いた。「フランス写真界の長老」ナダールはマルセイユで成功を収め、[[フレデリック・ミストラル]]ら南仏の知識人らと親交を結んだ。[[1900年]]、[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万博]]において、息子ポールの企画したナダール回顧展は大きな反響を呼び、ナダールは受賞した。[[1904年]]にパリに戻り、[[1910年]]に90歳の生涯を閉じた。
 
== ナダールによる19世紀後半の有名人たちの肖像写真 ==