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'''甄 琛'''(しん ちん、生年不詳 - [[524年]])は、[[北魏]]の[[官僚]]・[[学者]]・[[政治家]]。[[字]]は思伯。[[本貫]]は[[中山郡]][[無極県|毋極県]]。従弟は[[甄密]]。
 
== 経歴 ==
[[漢]]の[[太保]][[甄邯]]の後裔とされる。州主簿の甄凝と鉅鹿曹氏のあいだの子として生まれた。[[経書]]や[[史書]]を学び、短躯ながら容姿にすぐれ、[[秀才 (科挙)|秀才]]に挙げられた。都の[[大同市|平城]]に入って年を重ね、[[囲碁]]に夢中になって、夜を徹して止まなかった。夜にはいつも手下の[[奴隷|蒼頭]]に[[ろうそく|蝋燭]]を持たせていたが、あるとき蒼頭が眠りこけていたため、杖罰を加えた。蒼頭は痛みに耐えかねて、「郎君は父母のもとを辞して、京師に仕官なさいました。もし読書のために蝋燭を執っているなら、わたくしめも罪を受け入れましょうが、囲碁のために日夜休まないことが、上京の目的だったのでしょうか。杖罰を受けるにしても、理に合わないではありませんか」と抗弁したので、甄琛はおそれ恥じ入って、許叡や[[李彪]]に書を借りて学習を再開し、優秀で知られるようになった。
 
[[太和 (北魏)|太和]]初年、中書博士に任じられた。諫議大夫に転じ、ときおり直言したので、[[孝文帝]]に賞賛された。通直散騎侍郎に転じ、[[定州]]征北府長史として出向した。後に陽平王[[元頤]]の下で定州衛軍府長史となった。[[宣武帝]]が即位すると、甄琛は中散大夫・兼御史中尉となった。御史中尉を兼ねたまま通直散騎常侍に転じた。甄琛は塩の禁制を緩めるよう上表した。
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== 子女 ==
* 甄侃(長、字は道正。郡功曹から秘書郎となったが、素行や交友関係に問題があった。あるとき洛水の亭舎に宿泊して酒色に溺れ、そこの主人を殴打したため、[[司州]]に弾劾された。甄琛と不仲であった広平王[[元懐]]がこの件を追求しようとしたため、甄琛は宣武帝に奏聞して寛大な処分を求め、甄侃を釈放させた。甄侃は廃嫡されて蟄居させられ、家で死去した)
* [[甄楷]](字は徳方)
* 甄寛(字は仁規。員外散騎侍郎・定州別駕から太尉従事中郎・治書侍御史に転じた。[[東魏]]の[[武定 (東魏)|武定]]初年、病のため帰郷し、家で死去した)