「マリー・ローランサン」の版間の差分

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==生涯==
{{出典の明記|date=2012年12月|section=1|ソートキー=人1956年没}}
マリー・ローランサンは[[1883年]]に[[10区 (パリ)|パリ10区]]で私生児として生まれた(ただし、資料によっては[[1885年]]生まれとなっている)。父はのちに代議士となったアルフレッド・トゥーレだが、マリーは彼が父親だということを長い間知らなかった。母はポーリーヌ・メラニー・ローランサン。パリ9区の[[リセ]]・ラマルティーヌ高校 ([[:fr:Lycée Lamartine|fr]]) に学び、画家を志し、アカデミー・アンベールで絵を勉強する。ここで[[ジョルジュ・ブラック]]と知り合い、[[キュビズム]]の影響を受けた。[[1907年]]に[[アンデパンダン展|サロン・ド・アンデパンダン]]に初出展。このころ、ブラックを介して、[[モンマルトル]]にあった[[洗濯船|バトー・ラヴォワール(洗濯船)]]という安アトリエで、[[パブロ・ピカソ]]や[[詩人]]で[[美術評論家]]の[[ギヨーム・アポリネール]]と知り合った。
 
アポリネールと出会った時、彼は27歳、ローランサンは22歳。二人は恋に落ちた。だが[[1911年]]にアポリネールが[[モナ・リザ]]盗難事件の容疑者として警察に拘留された頃には(彼は無罪であったが)、ローランサンのアポリネールへの恋愛感情も冷めてしまった。その後もアポリネールはローランサンを忘れられず、その想いを歌った詩が彼の代表作『ミラボー橋』であるという。
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[[1912年]]に開いた最初の個展は評判となり、その後、次第にキュビスムから脱する。ローランサンが30歳になる頃には[[エコール・ド・パリ]]の新進画家として知られるようになった。[[1914年]]に31歳で[[ドイツ人]]男爵(オットー・フォン・ベッチェン)と結婚。これによりドイツ国籍となったため、同年に[[第一次世界大戦]]が始まると、はじめ[[マドリッド]]、次に[[バルセロナ]]への亡命生活を余儀なくされた。戦後、[[1920年]]に離婚して単身パリに戻る。
 
パリに戻ったローランサンは、パステルカラーの簡潔で華やかな、夢見るような少女像という独特の画風を作り上げ、フランス史上'''[[狂乱の時代]]'''(Les Années Folles)と称された[[1920年代]]にあって、時代を体現した売れっ子画家となった。パリの上流婦人の間ではローランサンに肖像画を注文することが流行となったという。また、舞台装置や舞台衣装のデザインでも成功した。関わったものとしては、[[フランシス・プーランク]]のバレエ『[[牝鹿]]』や、[[オペラ=コミック座]]の『娘たちは何を夢みる』、[[コメディ・フランセーズ]]、[[シャンゼリゼ劇場]]で上演された[[ローラン・プティ]]のバレエなどが知られている。
 
[[第二次世界大戦]]の際はフランスを占領した[[ナチス・ドイツによるフランス占領|フランスを占領したドイツ]]によって自宅を接収されるといった苦労もありながらも、創作活動を続けた。1954年、シュザンヌ・モローを正式に養女とする。1956年にパリにて心臓発作により死去した。72歳没。
離婚後は[[バイセクシャル]]でもあった。