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==歴史==
===設立===
スペイン人の都市サンティアゴ・デ・クエレタロの設立は、スペインのルナン・ペレス・ボカネグラ・イ・コルドバが、[[アステカ]]の支配下にある同盟関係にあった[[オトミ族]]の行政長であったにあるオトミ族のリーダーのコニン(Conín)(後にフェルナンド・・タピア)に到着した1531年7月25日であると裏付けられている。この日、スペイン人と同盟関係にあった[[ナワ族]]は、現在はSangremalサングレマルと呼ばれ、当時Ynlotepequeインロトペケと呼ばれていた丘で、スペイン支配以前の時代には神聖と考えられていた丘において、地方の反乱軍 [[オトミ族]]および[[チチメカ族]]と戦っていた。 Friar Isidro Félixde Espinozaイシドロ・フトリス・デ・エスピノサ修道士によって書かれたようど、この出来事を記した年代記には、太陽の皆既日食が起こったときに、チチメカがまさに勝利しそうであったときに皆既日食が起こったと述べられている。スペイン人たち日食、おそらくチチメカへの恐れからさせスペイン人はバラ色の十字架をつけた白い馬に乗るサン・ジェームズ[[ヤコブ (イエスの兄弟)|聖ヤコブ]](スペインの守護聖人)のイメージを見たと主張した。この出来事がチチメカを降伏させた。この出来事によって町はサンティアゴ(サン・ジェイムズ聖ヤコブ)・デ・ケレタロと呼ばれ、ジェームスは聖ヨコブが守護聖人と呼ばれになっている。スペイン人が見たものと称する十字架を模した石の十字架が丘の上に建てられ、後に教会と修道院が併設された。

しかしスペインの支配権の拡大徐々に少しずつ拡大したのであり唯一ただ1つの戦いで勝つこと得られたわけなかった。1520年代、現在の南ケレタロ地域と[[キシ州]]北部のオトミす及および多くのチチメカ族は、まだ旧領主の一定の支配権を維持していたXilotepequeシロテペケ統治君主の支配において[[エルナン・コルテス]]と同盟した。最初のスペイン人は1526年から1529年の間にエルナン・ペレス・デ・ボカネグラ(Hernán Pérezde Bocanegra)により率られていた最初のスペイン人は、1526年から1529年の間にここに到着した。ボカネグラは当初非暴力的な手段によってこの地域を従させ、スペイン人の都市を創設するために、非暴力的手段をしようと試みた。しかし、ケレタロ市を建設しようとする当初の試みは地元の人々により反発を受けたため、ボカネグラは南下せざるを得なくなり、フイしてウィミルパン(Huimilpan)とアカバロ(Acámbaro)という都市をここに創立せねばならなかった。ボカネグラはコイネシロテペケの領主Xilotepequeであるコニンと交渉を継続した。領主の協力が得られ、最終的に信用を得てスペイン-チチェメ/オトミ間の紛争を終結することが最終的に認められこの地のスペイン知事総督となった。しかし、ケレタロの初期の植民地時代の歴史の大半は、残っているチチメカ勢力と[[エンコミエンダ制]]を設立させた最初の場所の一つのスペイン当局との間の小競り合いによって特徴づけられる。コニンは、この新都市の先住民族はSangremalとスペイン人を分離し、先住民をサングレマル丘の上とその周辺に、スペイン人住民現在の歴史的中心部の周辺分離し置いた。この都市のスペイン人エリア地域、D. Juan Sanchez de Alanizドン・ホアン・サンチェス・デ・アラニスにより設計され、先住民エリアは伝統的なオトミ方式により配置された。1535年に最初の議会が開催され、1537年にプエブロ・デ・インディオス(インディアン・ビレッジオの村)と命名され、エンコミエンダ制は終わった。

この間、[[フランシスコ会]]が布教活動にき、のちに[[リマイエズス会]]、[[アウグスティノ会]]そ他が加わって、コベント・グランシスコ修道院、サンタクルーズ修道院などの修道院を建設したイエズス会、アウグスティナ人などがこれに続いた。
 
==気候==