「エドウィン・チャドウィック」の版間の差分

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[[Image:SirEdwinChadwick.jpg|thumb|right|200px|[[サー]]・エドウィン・チャドウィック]]
'''[[サー]]・エドウィン・チャドウィック'''(Sir Edwin Chadwick、[[1800年]][[1月24日]] - [[1890年]][[7月6日]])は、[[イギリス]]の社会改革者である。
 
'''[[サー]]・エドウィン・チャドウィック'''(Sir Edwin Chadwick、[[1800年]][[1月24日]] - [[1890年]][[7月6日]])は、[[イギリス]]の社会改革者である。彼の主な仕事は、[[救貧法]]と[[下水道]]、そして[[公衆衛生]]の改革である。なぜ、チャドウィックは公衆衛生に惹かれたのか。その答えは、それが富をもたらすという、彼の信念にあった
 
== 人物 ==
 
この他チャドウィックは入念な「Report on the Sanitary Conditions of the Laboury population of Great Britain 」(労働者階級の衛生状態に関する報告)によって公共[[歩道]]と公共[[庭園]]が労働者階級の人々の健康と道徳に必要であると、実例を挙げて報告している。
 
こうしてチャドウィックの活動はベンサムの手法とベンサムがかつて考えた間接立法での提案をそのまま踏襲しているとし、公共遊歩道法案(Public Walk Bill)から1833年の公共歩道に関する特別委員会報告「Parliamentaly report on public walks of 1833」(公共歩道に関するレポート)で、美と休息に対する国家的関心問題を議論している。
 
また、彼は[[労働組合]]の設立に貢献した。彼は政権の中央集権型システムを好んだ。後に彼は1834年の改革運動は彼の視点の拒絶により致命的に台無しとなった、と主張した。彼の視点は、あくまで監察官の保護活動委員会に管理される有給職による救貧法の安堵の管理を熟慮していた。1834年彼は救貧法委員会の長官に指名された。お偉いさん上層部は、彼が最善であると考えた方法で彼が大部分を起草した法律を施行したがらない。彼はお偉いさん上層部うま上手くやることは難しいと気づき、その不一致は1847年の救貧法委員会の解散の一因となった。
 
チャドウィックの政治論争への貢献は、地方自治の原則により選ばれた代表ではなく、特定の地方課の訓練され選ばれた専門家に任せるという彼の信条にあった。彼は救貧法と公式に関連があったが、[[トマス・サウスウッド・スミス]]医師と協同して、公衆衛生の質疑を取り上げた。彼らの努力は公衆衛生の改善をもたらした。彼の''労働人口の健康状態(The Sanitary Condition of the Laboring Population)''<ref>[http://www.victorianweb.org/history/chadwick2.html 労働人口の健康状態(1842年)](ヴィクトリアンウェブ)</ref>は歴史的文献である。
*{{1911}}
 
== 関連項目 ==
*[[チャドウィック]]
*[[ブラック・レポート]]
== 関連書籍 ==
*(1988) England's Prussian Minister: Edwin Chadwick and the Politics of Government Growth, 1832-1854 ISBN 0271006293
 
=== 日本語への翻訳 ===
*(2002) エドウィン・チャドウィック 福祉国家の開拓者 ISBN 4888486654
 
== 関連項目 ==
*[[チャドウィック]]
*[[ブラック・レポート]]
 
== 外部リンク ==
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