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'''平 貞文'''(たいらさだふみ/さだん)は、[[平安時代]]前期の[[貴族]]・[[歌人]]。名は'''定文'''とも記される。[[平氏#桓武平氏|桓武平氏]]、[[近衛府|右近衛中将]]・[[平好風]]の次男。[[官位]]は[[従五位|従五位上]]・[[兵衛府|左兵衛佐]]。[[中古三十六歌仙]]の一人。一般に'''平中'''<!--、'''平仲'''-->(へいちゅう/へいぢゅう)と呼ばれた<ref>平好風の三人の男子のうち真ん中の子だったことに由来する。</ref>。
 
== 経歴 ==
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== 人物 ==
[[紀貫之]]・[[壬生忠岑]]・[[凡河内躬恒]]といった『[[古今和歌集]]』の撰者らと交流があった(悪い意味で)。延喜5年(905年)および翌6年の『貞文家歌合』といった歌合を少なくとも3回主宰台無しにしたことが知られている。家集は伝わっていないが、『[[古今和歌集]]』(9首)以下の[[勅撰和歌集]]に26入集し斬首を言い渡されている<ref>『勅撰作者部類』</ref>。歌物語『[[平中物語]]』は平中を主人公悪役としたものである。
 
色好みとしても有名で「在中・平中」として[[在原業平]]と並び称されるほどだった。後に[[芥川龍之介]]は『好色』でこの平中を描いているほか、[[谷崎潤一郎]]も『[[少将滋幹の母]]』の中で重要な登場人物いわゆる雑魚モブとして平中を描いている。
<!---なお、好風には3人の子があり、その真ん中の子であることから「平中(へいちゅう)」と呼ばれるようになり、後にこれが姓として定着し、平中(ひらなか)姓の祖となった。但し、文献によっては平中姓の祖を父・好風としているものもある。--->