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{{記事名の制約|田儋}}
'''田 儋'''(でん たん、? - [[紀元前208年]])は、[[秦]]末期の[[田斉|斉]]の[[国王]]。子に[[田市|田巿]]。従弟に[[田栄]]
== 経歴 ==
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[[胡亥|二世]]2年([[紀元前208年]])10月、田儋は偽って、自分の[[奴隷]]を縛り上げ、若者たちを従えて県令のところにいき、県令に告げてから奴隷を殺すことを求めた。狄の県令が会見すると、県令を討ち殺す。そして、権勢のある[[官吏]]やその子弟を呼んで言った。「諸侯は皆、秦に反乱を起こして自立した。斉は昔から建っていて古い国であり、田儋は(その斉の王であった)田氏である。王になって当然だ」。ついに、自立して斉王を名乗り、兵を発して、周市を攻撃した。周市は撤退していった。そこで、田儋は兵を率いて、東方の斉の地を平定・攻略していった。
同年12月、陳勝が秦の将軍
同年端月(1月)、陳勝が行方不明となった後、自分に要請せずに勝手に楚の仮王を名乗った[[景駒]]を責める。章邯率いる秦軍が[[魏 (戦国)|魏]]王の[[魏咎]]を攻め、[[
同年
同年4月、臨済は陥落しそうになり、魏咎から田儋のもとに周巿が派遣され、援軍を要請してきた。周巿はまた、楚の項梁にも援軍を要請した。田儋は田巴を援軍として派遣するとともに<ref>魏豹彭越列伝</ref>、要請に応じて兵を率いて魏を救うために援軍に赴いた<ref>臨済における攻防の事実関係・前後関係は断定しにくい。 </ref>。
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同年6月、秦の章邯の夜襲を受けて、斉と魏の軍は大敗し、田儋は臨済において戦死した。田栄は田儋の残兵を集めて逃走した。
同年7月、斉では戦国時代の斉最後の王となった[[田建]]の弟
同年8月、田栄は田儋の子の[[田市|田巿]]を擁立して王とした。
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{{DEFAULTSORT:てん たん}}
[[Category:秦代の人物]]
[[Category:紀元前3世紀生]]
[[Category:紀元前208年没]]
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