|
|
== 経歴 ==
[[山形県]][[山形市]]出身。父親が両足が不自由になり、母親(吉田コト(子))は農村で「一銭店」と呼ばれる雑貨屋を営むことになる。毎晩、酔っぱらった農民たちが押し寄せ、飲めや歌えやで卑猥な踊宴会を開いたり母親をやる誘う状態を目撃の当たりにしており、身障者の家庭から快楽の種を貪りとろうとする農民や封建的なムラの風土への憎悪を抱く。「庶民これらの醜さ、汚さ」経験を知り通して得た日本人の原像とつながる村落共同体への反発が、[[インテリ]]が陥いりがちな民衆への無条件な賛美とは一線を画する、後の活動の原点となるった<ref name=":0">{{Cite book|title=ノンフィクションを書く!|date=1999-07-02|publisher=ビレッジセンター出版局|last=藤吉|first=雅春|isbn=978-4894361294|pages=213-239|year=}}</ref>。
[[山形県立山形東高等学校]]卒業。[[早稲田大学]]文学部に入学。ノンポリであったが、「面白そうな[[セクト (新左翼)|派]]に顔を出しては[[ゲバルト棒|ゲバ棒]]を持ってデモに参加」していた。在学中に、映画監督[[小川紳介]]のが率いる小川プロダクション結成に参加<ref name=":0" /><ref name=":1" />。[[1968年]]、「日本解放戦線 [[三里塚闘争|三里塚]]の夏」のでは演出助手を務め、作中では撮影中にカメラマンが逮捕された理由を示すよう機動隊に食い下がる吉田の姿が収録されている<ref name=":1">伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年、139頁</ref>。しかし、「大地主の孫」としての小川の贖罪意識から発している「農民賛歌」の偽善性や小川個人の人間性に耐えられず、ついに小川プロを離脱(小川への批判会議で「これは、精神的な[[藤吉雅春同性愛|ホモ]]編『ノンフィクション集団じゃねえか!」と公然と小川体制を書く』(ビレッジセン批判した。激怒した小川はスター)中ッフにある「吉田批判」を強要したことから、離脱した。吉田は「小川から学んだのは、"民衆へのインラブレタビューで、詳細にの書き方"だけだったような気がする」と語られている)<ref name=":0" />。
[[1970年]]から[[水俣市|水俣]]に住み、胎児性の[[水俣病]]患者らと若衆宿を組織。国の補償金を貰った水俣病患者たちの生態を赤裸々に描いた最初の著作『下下(げげ)戦記』で、1988年、[[大宅壮一ノンフィクション賞]]を受賞。
|