「チェコスロバキア共産党」の版間の差分

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===フサークの正常化路線===
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-K0614-0006-003, Berlin, VIII. SED-Parteitag, Honecker, Husak, Ulbricht.jpg|250px|thumb|[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]を訪問したフサーク(中央、右は[[ヴァルター・ウルブリヒト]]、左は[[エーリッヒ・ホーネッカー]])]]
フサーク[[政権]]は外交と国内統治の「'''正常化'''」を掲げ、チェコとスロバキアによる連邦化を除くと、チェコスロバキアをほとんど全てノヴォトニー以前の体制に戻し、ソ連に最も忠実な同盟国として振る舞おうとした。プラハの春は社会主義体制の転覆を狙ったブルジョワ勢力が外国の支援を受けて起こした反革命策謀であると規定され、社会主義革命を守るためにWTO軍の介入は正当かつ必要だったとして、[[イタリア共産党]]や[[中国共産党]]からの非難に反論した。1969年に大規模な[[中ソ国境紛争]]まで悪化した[[中ソ対立]]でも全面的にソ連側を支持した。1971年には自らの役職名を[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]に合わせ倣って「書記長」へと改称し、[[1975年]]にはスヴォボダの死後に大統領へ就任した。
 
この正常化路線によって国内の混乱は収拾されたが、共産党に対する国民の不満は深く広まっていった。[[1977年]]には元共産党幹部会員でプラハの春での行動綱領作成を担当した[[ズデネク・ムリナーシ]]や[[劇作家]]としても有名な反体制活動家の[[ヴァーツラフ・ハヴェル]]らにより『[[憲章77]]』が作成され、フサーク政権の人権抑圧([[ヘルシンキ宣言 (全欧安全保障協力会議)|ヘルシンキ宣言]]違反)が非難されたが、政府は憲章署名者に対してムリナーシのように国外へ追放するか、あるいはハヴェルのように失職や投獄・監視など社会活動への参加を制約するかで応えた。チェコスロバキアには、プランガリー動乱で成立し、奇しくも1968の春と同年に経済改革を開始した[[ハンガリー社会主義労働者党]]の[[カーダール・ヤーノシュ]]政権のような改革への寛容性は見いだせなかった。
 
===ビロード革命と国家解体===