「藤井寺球場」の版間の差分

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[[1949年]]の2リーグ分裂時に近鉄は新球団を結成し、翌年のリーグ開幕に向けて約8000万円をかけてスタンドやグラウンドを改修。[[1950年]]から近鉄パールス(後の[[大阪近鉄バファローズ]])の本拠地となった。以降、パールス時代の近鉄の広告では本球場を「'''パールススタジアム'''」と称したものもあった。だが、照明設備を備えていない本球場ではナイター開催が不可能であり、近鉄は平日の公式戦をもっぱら[[大阪スタヂアム]](大阪球場、1950年 - [[1957年]])と[[日本生命球場]](日生球場、[[1958年]] - [[1983年]])で開催していた。このため、本球場は野球協約に定める[[専用球場]](=本拠地)であった傍ら、長年一軍の試合では週末や祝日のデーゲームしか使われず、実質の本拠地は日生球場であった。
 
日生球場は[[大阪市]]の中心部という立地の良さから、交通の便が良く観客動員も見込むことが可能で、グラウンドと客席の距離が近いメリットもあった。しかし、社会人野球チームを持つ[[日本生命保険]]から借用していた球場だったために収容人員が少なく(約20,500人)、グラウンドの狭小さ、暗い照明、トイレやロッカーといった設備が他球場と比較して整っていない等、プロ野球興行に適しているとは言えなかった。このため[[日本野球機構]]や[[パシフィック・リーグ]]が一時的に問題視し、[[愛知県]]や[[三重県]]などの近鉄沿線の中京地区への移転も検討されたが、愛知県を[[プロ野球地域保護権|フランチャイズ]]とする[[中日ドラゴンズ]]の独占権益侵害やファン分散に繋がる恐れから断念せざるを得なかった。
 
近鉄にとって最も大きな問題は、本球場も日生球場も[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]や[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]の開催条件とされている「照明設備のある収容人数3万人以上の球場」という条件を満たしていないことであった。実際に近鉄が初のリーグ優勝を果たした[[1979年]]と連覇した[[1980年]]の日本シリーズは、[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]の本拠地だった大阪球場を借りて開催した(対戦相手は両年とも[[広島東洋カープ]])<ref>ただし[[1975年]]のプレーオフは本球場で行われ、もし近鉄が日本シリーズに進出した場合も本球場で開催予定だった。一方で1979年と1980年はプレーオフも大阪球場で開催され、近鉄にオールスターの主管が回ったときも大阪球場で開催した。この場合、主管は南海に譲渡している。</ref>。そのため、本球場でナイターを行うことは近鉄の長年の願いだった。