「グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフ」の版間の差分
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[[ファイル:Catherine Orlova 01.jpg|thumb|right|エカチェリーナ・ニコラエヴナ・ジノヴィエヴァ、{{仮リンク|フョードル・ロコトフ|en|Fyodor Rokotov}}作、1779年。]]
オルロフは[[オスマン帝国]]から[[キリスト教徒]]を解放しようという[[スラヴ派]]の主張を提唱した初期の人物であり、1771年にはロシア代表として[[フォクシャニ]]平和会議に派遣されたが、オスマン帝国が強硬だったのと(パーニンによると)オルロフの外交姿勢が横柄だったため失敗に終わった<ref name="EB1911" />。一方、サンクトペテルブルクではパーニンらオルロフの政敵が策謀をめぐらして、
オルロフの死後、エカチェリーナ2世は「私はこの悲しい出来事への準備がとうのむかしに整っていたが、やはり私の心の奥深くを揺さぶられてしまいます。人々は私を慰問し、私はこのような場合で言うべき言葉を自分に繰り返してかけるが、私の唯一の答えは涙を押し殺すことだった。私は耐えられないほど苦しんでいます。」と記述した<ref>Kaus, Gina (trans June Head). ''Catherine: The Portrait of An Empress'', Viking Press, New York, 1935, p. 314.</ref>。
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