「國粹会」の版間の差分

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Headisbad (会話 | 投稿記録)
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[[1922年]]{{small|(大正11年)}}の暮れ頃、大日本国粋会[[田甫一家]]の青沼辰三郎が[[浅草区]]千束町で年忘れの[[賭場]]を開帳。大和民労会の[[高橋組]]の木村は、青沼辰三郎の賭場に乗り込み、青沼を罵倒した。青沼辰三郎たちは、木村を賭場の外に連れ出し、暴行を加えた。これを切っ掛けに[[大和民労会と大日本国粋会の抗争事件]]が勃発した。[[1925年]]{{small|(大正14年)}}、大和民労会と大日本国粋会は、抗争事件を起こし、両者合わせて160人が検挙された。
[[1926年]]{{small|(大正15年)}}[[5月12日]]に金沢市における本部支部長会議の挨拶で村野会長が[[鶴見騒擾事件]]に触れ、「任侠義気の精神によるもので、善導すれば現代に応用でき、国家が元気になる」とし、「むしろあんな党派([[イタリア]]の[[ファシスタ党]])の出現を防止するために起こっているようなもの」と国粋会がヨーロッパのファシズムに反対するものであることを訴えた<ref>[[色川大吉]]「流転の民権家 村野常右衛門」</ref>。
 
[[1927年]]{{small|(昭和2年)}}の10月に[[東京市]][[麹町区]](現、[[千代田区]])下二番町へと総本部を移設。[[1929年]]{{small|(昭和4年)}}に鈴木喜三郎が総裁となり、野村会長の没後は高橋光威が会長に推されたが、中安理事長が会長となった。[[関東大震災]]時には総本部を京都に移し、関東本部と対立する内紛となった。