「漱石先生ぞな、もし」の版間の差分

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==内容概要==
* 第1話 「べらんめえ」と「なもし」
**[[松岡譲]](漱石の長女、筆子の夫で半藤の義父)から受け継いだ、『[[坊つちやん]]』を含む本の欄外に、漱石の[[愛媛県立松山東高等学校|松山中学]]の同僚教師、[[横地石太郎]](赤シャツのモデルに擬せられている)、弘中又一(坊つちやんに擬せられる)による、詮索、思い出、考証の書き込みがあるのを見つける。漱石が『坊つちやん』で描いたエピソードの元ねたが考証され、『坊つちやん』の[[江戸弁]]の軽口と[[伊予弁]]の対比の魅力が語られる。薀蓄としては、「日清談判破裂して…」と歌われる「[[欣舞節]]」の[[東艦|吾妻艦]]の話が紹介される。
* 第2話 漢学を好んだこと
**23歳の[[正岡子規|子規]]が[[向島 (墨田区)|向島]]での感興を漢詩・短歌など7つの形式で表現した『七草集』に、漱石は読後感を漢文でしたためて9首の七言絶句をつけた際に、「漱石」の号をはじめて用いた。明治の文学者の雅号の来歴が紹介される。『[[吾輩は猫である]]』のなかの漢文、禅語の記述についても紹介される。