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{{基礎情報 武士
'''北 愛一'''(きた ちかかず、生年不詳 - [[寛永]]11年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]([[1634年]][[7月2日]]))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]の武将で[[南部氏]]家臣。彦助。'''定愛'''(さだちか)とも言う。父は[[北信愛]]、母は[[南氏]]。弟に[[北秀愛]]、[[北直継]]、[[北愛邦]]がいる。子は[[北直愛 (左衛門佐)|北直愛]]、[[北愛言]]。
| 氏名 = 北愛一
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]前期
| 生誕 = 不明
| 死没 = [[寛永]]11年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]([[1634年]][[7月2日]])
| 改名 =
| 別名 = 定愛、彦助
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 =
| 幕府 =
| 主君 = [[南部信直]]→[[南部利直|利直]]
| 藩 = [[陸奥国|陸奥]][[盛岡藩]]
| 氏族 = [[北氏]]
| 父母 = [[北信愛]]、[[南氏]]
| 兄弟 = '''愛一'''、[[北秀愛|秀愛]]、[[北直継|直継]]、[[北愛邦|愛邦]]、[[種市愛久]]
| 妻 =
| 子 = [[北直愛 (左衛門佐)|直愛]]、[[北愛言|愛言]]
| 特記事項 =
}}
 
'''北 愛一'''(きた ちかかず)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武士]]。[[南部氏]]家臣。彦助。'''定愛'''(さだちか)とも言う。
 
== 生涯 ==
[[北信愛]]の長男として誕生。母は[[南氏]]。
 
『[[参考諸家系図]]』によると、主君・[[南部信直]]から父・信愛の功により2050石を得ている。『岩手県史 第3巻』所載の系図では2150石とある。
 
『岩手県史』によれば、[[九戸政実#九戸政実の乱|九戸政実の乱]]後、九戸側につき滅んだ旧[[一戸氏|一戸]]方の寺田館([[寺田城]])を領し2500石を知行している。また、寺田館へは北館から移ってきたとされる(『[[日本歴史地名大系]]』)。早くから所領を持って父・信愛から独立していたため、弟・[[北秀愛|秀愛]]と父・信愛の死で断絶した[[花巻城|花巻]]北氏の名跡は継がなかった。また父・信愛が名跡継承を願わず死去してその所領が藩に接収されたため、愛一と弟・[[北直継|直継]]は新たに禄を得て家を興す形になったともされる[http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20101006_16]
 
跡を子の[[北直愛 (左衛門佐)|直愛]]が2100石で継いだ。直愛の弟・[[北愛言|愛言]]は分家した。しかし直愛の死後に跡を継いだ[[北愛時]]は遺領のうち500石しか継げず、また愛時は病ですぐ隠居してしまい、子の[[北岩松]]が早世して北氏嫡流は断絶した(『岩手県史』)。一方「参考諸家系図」によると、早世した岩松の家督は愛時の弟・[[北愛紀]]が継いだとあり、愛紀は300石を知行した。のち当主自害によって一旦改易され、50石で再興され幕末に至った。
 
ただし息子・左衛門佐直愛については、弟・北主馬(秀愛)と同一人物とする説もある(『鹿角市史』他)。