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de:Geschichte Mecklenburgs#Mecklenburg in der Weimarer Republik und in der Zeit des Nationalsozialismus 15:33, 25. Okt. 2019 およびde:Mecklenburg-Schwerin#Freistaat Mecklenburg-Schwerin (1919–1933) 13:31, 9. Sep. 2019 から転記翻訳 |
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|変遷4=大公国領への昇格
|変遷年月日5=1918年
|変遷5=
|変遷年月日6=1920年5月17日
|変遷6=自由州憲法制定
|変遷年月日7=1934年1月1日
|変遷7=[[メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州]]と合邦
|国旗画像=Flagge Großherzogtümer Mecklenburg.svg
|国章画像=Coat of Arms of the Grand Duchy of Mecklenburg - Schwerin.svg
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== 歴史 ==
=== メクレンブルク=シュヴェリーン大公国 ===
メクレンブルク家の始祖は、スラヴ人の部族連合[[オボドリト族]]の族長の一人[[ニクロト]](1090年 - 1160年)という人物だった。ニクロトは[[ヴェンド十字軍]]の中で勢力拡大を続ける[[ザクセン公国|ザクセン族]]の[[ハインリヒ3世 (ザクセン公)|ハインリヒ獅子公]]に立ち向かい、命を落とした。ニクロトの遺児[[プリビスラフ (メクレンブルク侯)|プリビスラフ]]はハインリヒ獅子公に降伏し、[[1167年]]に父祖伝来の領地をドイツ王国の封土メクレンブルク侯領という形で相続した。
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[[1520年]]、ハインリヒ4世の孫である[[:de:Heinrich V. (Mecklenburg)|ハインリヒ5世]]と[[アルブレヒト7世 (メクレンブルク=ギュストロウ公)|アルブレヒト7世]]の兄弟は、再び公国を分割相続し、弟のアルブレヒト7世が[[メクレンブルク=ギュストロウ]]公国を創設した。同公国は[[1610年]]、本家筋のメクレンブルク=シュヴェリーン公{{仮リンク|アドルフ・フリードリヒ1世 (メクレンブルク公)|de|Adolf_Friedrich_I._(Mecklenburg)|en|Adolf Frederick I, Duke of Mecklenburg|label=アドルフ・フリードリヒ1世}}の領土となった。[[1621年]]、アドルフ・フリードリヒ1世は弟の{{仮リンク|ヨハン・アルブレヒト2世 (メクレンブルク公)|de|Johann Albrecht II. (Mecklenburg)|en|John Albert II, Duke of Mecklenburg|label=ヨハン・アルブレヒト2世}}に再びギュストロウ公爵領を分与した。公爵兄弟は[[三十年戦争]]でデンマーク王[[クリスチャン4世 (デンマーク王)|クリスチャン4世]]を支持したために、[[1628年]]に皇帝軍の司令官[[アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン]]によって廃位された。しかしその3年後の[[1631年]]、[[バルト帝国|スウェーデン帝国]]軍の助けを得て兄弟は復位することが出来た。ヨハン・アルブレヒト2世の息子[[:de:Gustav Adolf (Mecklenburg)|グスタフ・アドルフ]]は[[1695年]]、男子の相続人を残さず亡くなったため、メクレンブルクは[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (メクレンブルク公)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]の下に再統合された。
しかしフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の叔父[[アドルフ・フリードリヒ2世 (メクレンブルク公)|アドルフ・フリードリヒ2世]]は、甥に対してギュストロ
[[1815年]]、[[ウィーン会議]]に際して[[フリードリヒ・フランツ1世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ1世]]は大公の称号を授けられた。[[1918年]]、[[第1次世界大戦]]末の
[[Datei:Wappen Freistaat Mecklenburg-Schwerin.png|miniatur|hochkant=1.10|Wappen des Freistaates Mecklenburg-Schwerin]]▼
=== メクレンブルク=シュヴェリーン自由州 ===
▲[[
君主制は廃止されたが、メクレンブルク=シュヴェリーンとメクレンブルク=シュトレーリッツは統一されることなくそれぞれ個別に[[自由州 (ドイツ)|自由州]]となり、独自の州憲法を制定して独自の州議会を有した。一方で、上級裁判所についてはロストックにあったメクレンブルク上級控訴裁判所を共有した。
[[メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州]]は[[プロイセン自由州]]の県ほどの大きさしかない小州で、財源も乏しかったことからわずか数年で財政的に行き詰まり、1920年代後半にはメクレンブルク=シュヴェリーン自由州との合邦やプロイセン自由州からの支援取り付けが模索されたが、結論が出ないままであった。その後、[[ナチス・ドイツ|ナチ党政権]]による[[強制的同一化]]の過程で国家代理官が置かれることになると、メクレンブルクの国家代理官となったフリードリヒ・ヒルデブラントが両自由州を合邦させることを決定し、[[1934年]]1月1日に約3世紀ぶりにメクレンブルク州として統一された。
=== Politik ===▼
1937年に{{仮リンク|大ハンブルク法|de|Groß-Hamburg-Gesetz}}が制定されると、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン地方にあった飛び地のドームホフ・ラッツェブルクとハマー、マンハーゲン、パンテン、ホルスト、ヴァルトスフェルデをハンブルク都市圏のヘルツォークトゥム・ラウエンブルク地区に譲り、代わりに[[リューベック]]からウテヒトとシャッティン (現在のリューダースドルフ地区) を移管された。また、シュターフェンハーゲンの飛び地であったツェッテミンも[[ポンメルン]]に移管された。
[[第二次世界大戦]]が終結すると、メクレンブルクは[[ソ連占領地域|ソ連の占領下]]に置かれ、[[オーデル・ナイセ線]]以西の[[ポンメルン]]と統合されて[[メクレンブルク=フォアポンメルン州]]となった。
君主制が廃された後、1919年2月21日に制憲議会が召集された。1920年5月17日にメクレンブルク=シュヴェリーン自由州憲法が制定され、1920年6月には州議会選挙が実施された。選挙制度は[[厳正拘束名簿式]][[比例代表制]]を採用し、[[ドント方式]]で議席配分が行われた。
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メクレンブルク=シュヴェリーン州政府は、州首相の下に外務省、内務省、財務省、法務省、教育・技術・宗教・医療・総務省、農業・国土・林業省の6省庁を有していた。内閣は州首相と大臣3人とされていたが、州首相・大臣ともは基本的に2省庁を所管する運用がされていたため、たいていは州首相と大臣2人で内閣を構成していた。また、外務省は州首相の所管とされた。ナチ党政権下では各州の自治権が縮小されたため、内閣は州首相と大臣1人となった。
== メクレンブルク=シュヴェリーンの君主 ==
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*カール・フォン・バッセヴィッツ=レーヴェツォフ(在任1901年 - 1914年)
*アドルフ・ランクフェルト(在任1914年 - 1918年)
== メクレンブルク=シュヴェリーン自由州首相(1918年 - 1933年) ==
* フーゴ・ヴェンドルフ ([[ドイツ民主党]]、 1918年 - 1920年)
* ヘルマン・ラインケ=ブロッホ ([[ドイツ人民党]]、1920年 - 1921年)
* ヨハネス・シュテリンク ([[ドイツ社会民主党]]、1921年 - 1924年)
* ヨアヒム・フライヘア・フォン・ブランデンシュタイン ([[ドイツ国家人民党]]、1924年 - 1926年)
* パウル・シュレーダー, ([[ドイツ社会民主党]]、1926年 - 1929年)
* カール・エッシェンブルク ([[ドイツ国家人民党]]、1929年 - 1932年)
* ヴァルター・グランツォー ([[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]、1932年 - 1933年)
* ハンス・エゴン・エンゲル ([[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]、1933年)
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{{ドイツ帝国の構成国}}
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