「北条実泰」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
25行目:
 
== 生涯 ==
[[承元]]2年([[1208年]])、父義時が46歳の時に誕生。[[建保]]2年([[1214年]])[[10月3日_(旧暦)|10月3日]]、従兄弟にあたる[[征夷大将軍|将軍]]・[[源実朝]]の御前で[[元服]]を行い<ref name="kotobank asahi" />{{Refnest|{{Quotation|建保二年十月小三日甲子。霽。尅。[[北条義時|相州]]參着給。戌尅。相州子息於[[源実朝|御]]前[[元服]]給。理髪[[大内惟義|前駿河守惟義朝臣]]也。号'''相摸五郎實義'''。|『[[吾妻鏡]]』|建保二年十月三日条}}}}、[[烏帽子親]]である実朝から[[偏諱]]を与えられて'''実義'''(さねよし)を名乗る<ref name="kotobank asahi" />{{Sfn|山野|2012|p=182 脚注(27)}}
{{Efn|もう片方の「義」の字はこの時に理髪役を務めた[[大内惟義]]から受けたものとされている{{Sfn|角田|2004|p=19}}が、元服にも立ち会った父・義時から継承したものとも考えられる。}}。
[[貞応]]2年(1223年)[[10月13日_ (旧暦)|10月13日]]に祗候番に任じられる。翌[[元仁]]元年([[1224年]])、17歳の時に義時が急死し、母伊賀の方が同母兄[[北条政村|政村]]を後継者に立てようとした[[伊賀氏の変]]が起こり、政村・実義兄弟は窮地に立たされる。伊賀の方は流罪となるが、政村と実義は異母兄[[北条泰時|泰時]]の計らいによって連座を逃れ、実義は父の遺領として[[武蔵国]][[六浦荘]](現在の[[横浜市]][[金沢区]])に所領を与えられた。泰時から[[偏諱]]を与えられて'''実泰'''に改名した
{{Efn|北条実義(後の実泰)は将軍を烏帽子親としてその一字を与えられたが、次代の実時以降の金沢流北条氏の当主は得宗家の当主を烏帽子親としてその一字を与えられている。これは、北条氏の一族の中で将軍を烏帽子親として一字を与えられるのが得宗家と赤橋流北条氏当主に限定され、金沢流北条氏の当主は大仏流北条氏の当主とともにそれよりも一ランク低い得宗家を烏帽子親とする家と位置づけられ、実義から実泰への改名もその方針に沿ったものであったと考えられている{{Sfn|山野|2012|p=}}。}}
のもこの頃とみられる